小説 |
2002. 1/ 8 |
春を待つ季節-後編-〜Side Stories From ClassMate2 #3〜 1/1(火) 薄い水色に、ぽつぽつと浮かぶ薄い白。お日様を遮るものはなにもなさそうな空。 新しい年の始まりは晴天。けれど、桜子の心はくもり気味。しかも、すべて灰色。 朝の空気はまだ冷たくて、それでもねまきでないからか、さほど寒さは感じない。 裏庭の土を踏むのはサンダルではなく靴。ねまきではない青と白のセーターも温かい。 夜の雰囲気とは全然違う裏庭。初夏あたりには、日光浴が気持ち良さそうな感じだ。 小鳥のさえずりが、桜子には本当に辛かった。だが、足を止めるわけにはいかない。 ベレー帽を少し深めに、視界を狭くするようにする。その中に、目的の物が見えた。 なんの変哲もない、中ぶりの木。枝にはまだ緑が残り、わずかな木漏れ日が心地好い。 月明かりの下で見た時より、彼の息遣いが耳もとにあった時より小さく感じる木。 その足元。黒い土が丘を作っていた。お墓、というには雑すぎる土のかたまり。 足を止め、すっとしゃがんだ。そして、手にしていた白い花をその上に置いた。 どこか遠い目をする。今はいない…昨日までいた友達を思い出し、また悲しくなる。 「ターボ。本当に…ごめんね」 まだ赤い瞳。頬にはかすかに涙の跡。そっと手を重ね合わせて、目をつむった。 出会いを思い出し、ターボとの日々を思い出し、そして…手の平のターボを思い出す。 とっても冷たかった骸。安らかそうに見えたのは、桜子の勝手な思い込みかもしれない。 狭い鳥かごでもずっと付き合ってくれた小鳥。だが、自然に帰る事はなかった。 なのに自分は鳥かごから出ていく。帰るのは自分の家。そして、新しい生活が始まる。 身代わり、だなんて思わない。けれど、あまりにも自分勝手すぎたから…辛かった。 「本当に…本当に、ごめんね」 許してくれるかわからない。でも、謝るしかない。それしか、今はできないのだから。 一粒。あごを伝い、土に染み込んだ。桜子の心…にわか雨。 病院の入口。いつもなら、車は乗り入れ禁止。だけど、今日は特別らしい。 停めてあるのは、桜子の母親が運転してきた小さい車。丸っこいデザインで、色は青。 残った荷物はもう積んである。運転手さんが戻ってくれば、あとは家に帰るだけだった。 先生に用事があるから、と落ちつきなく建物に入っていった母親。帰ってこない。 だから、ターボのお墓に行った後、この車の横でぼけっとしているしかなかった。 自分の病室だった部屋を見上げる桜子。懐かしいどころか、新鮮に感じる景色。 真っ白い壁の建物。どこか古めかしい窓は、いつもの時間ではないのに全開にしてある。 そして、真っすぐに伸びた大きな木。いろいろと思い出をくれた、大切な木。 …りゅうのすけ君… ふと目にした時計。まだ、お昼にもならない時間。今日、彼と会うのは無理に近い。 ターボとのお別れ。そして…今度は彼とのお別れ。もう、会う事もないのだろう。 本人すら驚き、尋常ではないほどに慌ただしすぎる退院。 だから、この事を彼には伝えられなかった。 結果的に、お別れのひとつもなしに、黙ってここから消える事になる。 毎日来てもらっていた。手を擦りむきながら木登りをしてくれた。 枝に座るのは危ないのに、風はとっても寒いのに、なにも話す事はないのに、それでも来てくれた。 いつでも身体の事を心配してくれた。 おしゃべりの途中でも、ちょっとでも疲れた素振りを見せたなら、気をつかってそっと引いてくれた。 おまけに夜中に会ってもらって、デートしてもらって、ペンダントを押しつけて。 …本当に、わがまますぎるよね… もし、今日来てくれても会えはしない。 明日来ても、明後日来ても会えはしない。 絶対に会えないわけではない。 けれど、どういう顔をして会えばいいのかわからない。 たった一日会えないだけでも、その事は重石となって、桜子をじわっと苦しめるだろう。 いつの間にかうつむいて、指先は唇をなぞっていた。 退院だから、笑顔は作れない。 「退院だっていうのに、下なんて向いてちゃだめよ」 突然の声。いつの間にか、目の前に白衣の天使。 だから、黙ったまま顔を上げた。 にこにこと、お日様みたいな笑顔。 だが、桜子の表情には苦笑いしてしまった。 「どうしたの、そんなに暗い顔して。もしかして…退院するのいや?」 「そんな事…」 またうつむくから、腰を曲げて桜子の顔をのぞき込み、寂しい瞳を優しく見つめた。 「ターボはかわいそうだったけど、仕方のない事なの。あまり深く考えないの」 そっと肩に置かれた手が温かくて、それでも桜子は落ち着かない。 看護婦さんは知らないお別れだから、慰めようもないのだ。自分で納得するしかないのだ。 「はい…」 「とりあえず、三年分遊んでらっしゃい。ぜーんぶ忘れるぐらいに、おもいっきりね」 ウインクをひとつすると、看護婦さんは桜子の言葉を待った。何か言いたげな瞳だから。 「あの…」 決意したように顔を上げ、口を開いた。 いろいろと言いたい事があった。いろいろと伝えたい事があった。 けれど…言葉がない。だから、世間並みの言葉、ひとつ。 「…お世話になりました」 「桜子ちゃんもご苦労様でした。それに…おめでとう」 ほほ笑んでくれた看護婦さんに、桜子の目は潤んでいた。 バックミラーに写るのは、元旦勤務の先生や看護婦さんたち。ほぼ、総出。 窓から身体を乗り出して、手を振るような気分でもなく、助手席でおじぎをしただけ。 一方通行を右に曲がれば、あっけないほどのお別れになる。もう、病院は見えない。 慣れないシートベルトのせいか、どこかうつむき加減に、桜子の視点は定まらない。 ちらりと横目で娘を見て、落ち込んでいる理由はターボかしら、なんてふと思う。 「なーに、まだターボの事を気にしているの? 別に桜子のせいじゃないわよ」 「うん。けどね…悪い事したなって」 看護婦さんも先生もお母さんも、みんなターボの事ばかりを慰める。 実際、今だって悲しいって思っている。悪い事をしたって思っている。だけど… 横顔を見られるのが嫌で、桜子はドアの方に顔を向けた。どこかの商店街かな。 「寿命だったって、先生も言っていたわよ。プロの言葉を信じたら?」 「…だって、獣医さんじゃないもん」 似たようなものよ、と母親は笑う。 なんにしてもさっきから笑顔のままだった。 信号が赤に変わったから、手前から減速しはじめる。停止線の手前にぴったりストップ。 左手に見えるのはお昼前の八十八駅。人気も少なく、ロータリーもがらがらだった。 改札を通る、橙の振り袖にリボンの女の子。その横には男の子。これから初詣だろうか。 華やかな色。白と緑の病院にはない空気。少し気持ち良くて、どこか気持ち悪い感覚。 いつの間にかグリーンシグナル。アクセルを踏み、景色がまた動き始める。 「今日ね、お母さんたちが来てるの。桜子に会いたいって」 「そうなんだ…」 「おせち作ってくれたのよ。着くのがお昼ごろだから、ちょうどいいんじゃないの」 「…お母さんは作らなかったの?」 「ちょっとは手伝ったけれど…ほら、料理が苦手だから」 照れるように笑うと、ふたりはしばらく沈黙する。車という狭い空間にはつらすぎる。 だから、また母親は話し出すが、声しか聞こえない。車窓をほけーっと眺めているから。 流れる景色は病室の窓の外とは違う。固定された絵画ではなく、一瞬で変わる動画。 動かなくてはいけない。待っていても、なにも起こらない世界。病室とは違う世界。 「それでね、お父さんったら朝からお酒飲んでるのよ。桜子の退院祝いだ、って」 「へぇ」 「あの人、すごく弱いから、もうゆでだこみたいに真っ赤になってね」 「ふーん…」 人事のように、興味なさそうに聞いている桜子。 だが、母親は気にしていないようだ。 渋滞もなく、淡々と進む車。母親の話は続いている。 だが、まぶたが重くなってきた。 時々揺れるのが、逆に気持ち良くて、だんだんと右側の声が小さくなっていった。 桜子は、サイドドアに寄りかかるようにして、すやすやと寝息を立てていた。 大きく見えた家。三年ぶりの玄関の扉はなんだか重い気がする。 右手に二階への階段。上がれば桜子の部屋に着く。 だが、真っすぐの廊下を行く。 左側の引き戸。がらがらがら、と開けた。 畳敷きの部屋。大きなこたつ。 父と祖父と祖母。桜子に注目し、言葉を待っている。 どこか落ち着き、どこか不安を感じる。 だが、何を待っているかはわかっていたから。 「た…ただいま、お父さん」 「ああ。お帰り、桜子」 真っ赤な父。涙を押し殺したような声。 服は乱れていたが、ろれつはしっかりしていた。 この時の父親の顔を、桜子は忘れられないような気がした。 エアコンを入れなくても、窓からの陽射しでそれなりの温度になっている部屋。 ストールをベッドの上に乱暴に放る。そして、窓の近くに足が引かれていく。 くせのように外を眺めると、家の前の通りで遊ぶ子供たち。そろそろお昼なのに。 二階のこの部屋。周りは同じくらいの高さの家ばかり。見晴らしはさほどよくない。 桜子はベッドの上に座る。そして、もう一度自分の部屋をじっくりと見回した。 なにも変わっていなかった。変わっていてもわからないくらいの時間が過ぎたから? 小学校の頃から使っていた勉強机。中学の時に買ってもらったベッド。 ずっと前におばあちゃんからもらった年代物のたんす。本棚には、三年前の教科書や参考書たち。 けれど、ほこりひとつない部屋。忙しい合間をぬって母親が掃除してくれたのだろう。 そして…壁には八十八学園の制服。三年前に仕立てた、一度しか袖を通していないもの。 クリーニングの透明なビニール袋の下にのぞく鮮やかな色。あこがれのデザイン。 今までは病室の窓からのぞくのが精一杯だった。自分も、と思うと涙が出てきた。 お見舞いに来たうづきの制服をうらやむ事に何度も自己嫌悪したけど。 …八十八学園、行けるんだ。 今年の四月から、おそらくこれを着て通う事になる。三年遅れの、一年生として。 詳しくはわからないものの、母親の話では八十八学園に入学できるらしいのだ。 もっとも、お正月が終わり、学校業務が始まってからでないと手続きはできないが。 桜子は立ち上がり、制服を手にした。鏡の前に立つと、自分の前にそれをあててみた。 着ようと思えば着られるだろう。さほど、身体が大きくなったとは思えなかった。 …やっと、着られるんだ。この制服。 もちろん不安はある。勉強の事。年齢の事。病気にしたって完治したわけではない。 だが、それでも…嬉しいって素直に思える。どこか浮いているように、夢のように思う。 そして、その学校に彼が通っている事を思い出しては、いつの間にか沈み込んでいる。 いつもなら、ターボのかごの掃除をし終えて、鏡に自分の顔を、髪を写し出している頃。 染みついている生活習慣は、なかなか直るものではない。ましてや、ターボと彼。 …私… 桜子は制服をぎゅっと抱きしめる。そして、そのままベッドの上に倒れこんだ。 仰向けになれば、三年間、ずっと見なかった天井。あるいは、見たくもなかった天井。 クリーム色の天井も、変わってはいなかった。 リビングのこたつ。父がいて、母がいて、おじいちゃんとおばあちゃんと桜子がいる。 この空間の空気。病院でひとりに慣れていた桜子にとって、少々辛いものがあった。 どこか落ち着かない。自分の居場所がないような感じは、錯覚ではないだろう。 四人の大人に囲まれるようにして、いろいろと言葉をかけられ、会話をする。 けれど…あまり楽しくない。どこか肴にされている感じがして、あまり嬉しくない。 お酒を酌み交わす父と祖父。さっきから、何度も何度もめでたいめでたいを繰り返す。 晴れ着を出したらどうかしら、と祖母。しまった場所なんて忘れたわよ、と母。 桜子はコップを置き、おはしで掴んだのは黒豆。久しぶりのお母さんの味は甘い味。 こたつの上のおせち料理も、いつの間にか半分くらいはなくなっていた。 何もする事がなく、どこか手持ち無沙太。だから、久しぶりにテレビなんて見ている。 猫背になり、まるで教室で居眠りするように、手の甲であごのまくらを作りながら。 おそらく朝からつけっぱなしの、誰も見ていないテレビ。今映っているのは、舞島可憐。 動く彼女を見たのは、本当に久しぶりだった。そして、振り袖姿もやっぱり綺麗。 にぎやかな場所からの生中継。如月神社みたいね、と母親が独り言のようにつぶやく。 舌足らずなしゃべり方で、道行く人に、今年一年の抱負なんかを尋ねていた。 だが、桜子は見ているだけ。のめり込むわけでもない。たれ流しを見ているだけ。 テレビの上に、デジタルの時計がひとつ。赤い数字が、桜子の心の中でベルを鳴らした。 …今日も、病院に来てくれたのかな… 桜子の頭の中で、彼が動く。テレビの可憐よりもリアルに、生中継のように見える。 入口に彼がいる。来てくれた事にほっとする。そして、しばらくの間、見えなくなる。 窓を開ける。冷たい風を全身に感じる。熱い頬には、ちょうどいいくらいにひんやり。 ベッドはきちんと整っているよね。花瓶の水は取り替えてあるし、鳥かごも掃除した。 そして、ベッドに戻る。彼は木を登り終えて、幹と枝のすき間に身体を沈める。 あいさつも、ぜいぜいはぁはぁが混じっていた彼。いつも肩で息をしていた。 どきどきしながら彼の瞳の行く先を調べて、照れる。 もじもじと、無意識のうちに指先が動いている。彼の手の平をイメージしながら。 そうこうしているうちに、彼が話しはじめる。軽そうな唇が、ぺらぺらと動きだす。 だから、桜子も返事をする。本当の意味でのおしゃべり。 でも、とっても楽しい時間。 その間、瞳はそらさない。頬が熱くなる事を感じても、じっと見つめていたいから。 だが、少しづつ、確実に口数が減っていく。呼吸もどこか荒くなる。 気がつかれないように、ゆっくりと息をして、ちょっとでも彼といっしょにいようとする。 でも…限界だった。 彼にばれて、疲れたの、なんて聞かれると…うそはつけなかった。 とても優しい声。それだけで泣きそうになるほどの、少しさみしそうな瞳。 名残惜しそうに、彼が木から降りていく。その背中を見送る事しかできなかった。 病院の入口で、病室を見上げてなにか言いたげな彼。 けれど、もう聞こえない。 そして、彼は離れていく。見えなくなる。もう…永遠に見る事はないだろう、景色。 下を向くのは得意技。テレビよりも、ずっと近くのコップをじっと見つめていた。 ゆがんで映る自分の顔。さみしそうに自分を見つめ、さみしそうにほほ笑みかえした。 …元旦まで来ないよ。だって…忙しいはずだもん。同棲している人、いるんだもん。 本当はさみしいのに。本当は会いたいのに。自分にうそをつくのも得意だから。 彼に聞けなかった事を理由にした。そうやって、違う世界の人だと思い込もうとした。 忘れよう、とは思わない。けれど、考えるのはやめよう、って思う。それで…終わり。 つまらない結論。けれど、他には考えようがなかった。それで納得できればいい。 デートの後の前向きな自分がうそのようだった。どんどん後ろ向きになっていく。 コップを手にした。液体の入っていないコップ。 手の中で、ころころ転がす。 その縁に蛍光灯の光が反射する。冷たく、硬いガラスが、だんだんと温まっていく。 「なーに。また可憐ちゃんに嫉妬してるの?」 急に横から母親の声。うん、と気のない返事を返すと、コップでころころと遊びだす。 テレビには、見知らぬ男性タレント。ぺらぺらと、下品な声を出していた。 病院よりふかふかのベッド。ふかふかのまくら。懐かしい匂いのする毛布。 うつ伏せになり、まくらを抱きしめるようにして、身体を小さく丸めた。 夕方を少しまわった頃、疲れた事を理由にして、おやすみなさい、を言ってきた。 そして、すぐさま自分の部屋。ベッドの中。電気も消して、カーテンも閉めた部屋。 病院の夜も静かだったが、自分の部屋がこれほどまでに静かだったとは思わなかった。 …本当にひとりぼっちなんだ。 みやむーざるの掛け時計。かちかちかちと秒を刻む音と、自分の呼吸する音くらい。 ターボの寝息も、看護婦さんが廊下を歩く音も、風の踊る音も、木の鳴き声もない。 ホームシック、なのだろうか。一人の寂しい部屋だから、さみしさがこみ上げてくる。 そんな時、彼の横顔を思い出し、お昼に考えた事なんてばかばかしく思えてくる。 もう、無理。心に住み着いてしまった人を追い出すなんて、簡単にできる事ではない。 強くまくらを抱いた。鼻先を軽く押しつけて、あの時のように唇をまくらに当てた。 …私…わからないよ… ぬくもりを思い出しては、ほんの少しの涙の味。しょっぱかった。 病室。裏庭。白い壁。見慣れた天井。お見舞いの花。文庫本。鳥かご。手紙。木の幹。 ベッド。シーツ。テーブル。時計。オルゴール。カーテン。ねまき。サンダル。丸イス。 看護婦さん。先生。お母さん。うづきちゃん。ターボ。ターボと…りゅうのすけ君? ごちゃまぜだった。でも、最後の彼は混ざっていなかった。呼んだら応えてくれた。 だから、必死になって手を伸ばした。届かない事なんて、わかりきっていたのに… 落ち着く声。優しすぎる瞳。大きな手。あたたかい唇。だけど、離れていくから。 「りゅうのすけ君!」 その瞬間、目が覚めた。窓ガラスの外も中も夜。まだ、元旦は終わっていなかった。 1/2(水) 「つるるるるるる、つるるるるる…」 ここが寒いせいなのか、それとも朝早いせいなのか、桜子にはわからなかったけれど。 受話器がやたらと冷たくて、顔をしかめてしまう。 だが、それが自分の体温と重なるまで、それほど時間はかからない。 「つるるるるるる、つるるるるる…」 一階の、階段の横。木製の電話台と、古めかしい黒電話。子供の頃から変わらない景色。 その台の上にある、短い鉛筆とメモ用紙。母親の文字。用件は…仕事の事。 何枚かめくってみても、似たような事しか書いていなかった。だが、量は多かった。 と、呼び出し音が一瞬止まり、ようやく相手が出た。久しぶりの電話。生唾を飲んだ。 「もしもし、川部です」 「あ、あの…杉本ですけど…」 そして、久しぶりに聞いた、うづきの母親の声。妙に若くて、娘にそっくりの声。 弾んだように名乗った桜子だが、相手は言葉を続けてきた。その理由もすぐにわかった。 「ただいま留守にしていますので…」 言葉を遮った、留守、という単語。桜子はどこか緊張気味に、発信音を待つ。 「あ、あの…明けましておめでとうございます。桜子です。その…元旦に退院しました。 しばらく、家にいますので…あの…これを聞いたら、連絡下さい。待ってます」 うまく言えたよね。あとは、うづきちゃんと直接お話すればいいし… そう思い、受話器を置こうとした。だが、自分がねまきでない事に気がついたから。 「それと…今日は病院に行くので、午後からにしてください。それじゃあ…」 大きく息をはいた。電話を切っても、しばらく受話器の上で両手を重ねたままだった。 ストローをくわえて、両手で持つのはパックのりんごジュース。 ちゅー、とストローを小さく吸っては、人工的な甘酸っぱさが口の中に広がっていく。 ここの待合室は、天窓のようになっているから、お日様の光が直に入ってくる。 窓の高さも低めに設定されていて、長椅子に座る桜子からも、外がはっきり見える。 お昼前ののんびりした時間に日向ぼっこ。こうぽかぽかしていると、眠たくなる。 ふかふかのいすだし、お日様が気持ちいいし、景色もいいし…うつらうつら。 だが、すぐに母親が迎えに来るから、本格的に寝てしまうわけにもいかなかった。 …ここで検査すると…何か違うのかな。 退院した桜子。だが、今度は通院生活になっただけ。通うのは、秋月大学付属病院。 八十八駅から直通のバスで十五分程度。八十八町のお隣、楓町にある立派な病院だ。 初めての検査を終えて、それでも疲れが少なかったのは、簡単な事しかしなかったから。 不満、と言うわけではないが、別段ここまで来て検査する必要もないように思う。 …近い方が、楽でいいのにな。 明日もあさっても通院しなくてはいけない。病人にお正月は関係ないらしい。 もっとも、一般外来とは違って待たされる事がないだけ、少しは楽なのかもしれないが。 「お待たせ、桜子」 右耳に母親の声。ハイヒールのかかとが、こつんこつんと静かな待合室に響く。 「帰りに八十八病院寄っていく事になっちゃったけど、いいでしょ?」 桜子はこくんとうなづく。ストローが、ずずずっ、なんて音を立てた。 紙パックは、ずいぶんと軽くなっていた。 ノックしても返事がなかった。聞き耳をたてても、人の気配は全然しなかった。 ノブを回す。鍵はかかっていない。ゆっくりと、音をたてないように開ける。 八十八市民病院の二階の病室。昨日まで、桜子の生活の中心だった真っ白い病室。 先生に用事のある母親。少々時間がかかるからと、ぶらぶらした結果がここだった。 だが、ある意味…確信犯。 ドアを閉め、そこに寄りかかる。両手を後ろで組むと、ゆっくりと部屋を見回した。 …一日しか、たってないんだもんね… 何が変わったわけではない。ただ、今は部屋の主がいないだけ。だから、ここにいる。 綺麗に片付けられたベッド。サイドテーブルには、昨日まで使っていた花瓶がぽつん。 だが、引き出しにはなにも入っていないはず。何度も何度も確認したのだから。 そして、真っ白いカーテンがかかっている。お昼前後に閉めた事なんてなかったのに。 …だけど…もう、一日たっちゃったんだ… そう、鳥かごがなかった。この部屋で、元気な声を聞かせてくれた小鳥はもういない。 さっき、この部屋に来る前に寄ったお墓。 桜子が置いた白い花の横に、もうひとつ赤い花が添えてあった。 誰が置いたのかわからなかったから、ちょっと気味悪かった。 いつの間にかうつむいてしまう。その間、見えていない物を見てしまう感じがする。 小鳥。そして…あの男の子。 桜子は顔を上げた。時計を確認してから、カーテンに近づいた。 日光を遮ってはいるが、透けてきた光がこの病室をますます白くさせている。 だから、勢いよくスライドさせた。その先に、期待している人がいる事を願いながら。 …神様、お願いします… 窓ガラス。お日様の光が降り注いでいる。その柔らかさに葉を揺らす木。だが… 「いないよね…」 口元が笑った。瞳は正反対の感情を表していた。そっと窓ガラスに手の平を重ねる。 わかっているつもりだった。 今はお正月。わざわざ病院になんて来るはずもない。来たとしても、今でなければだめ。 …本当に…忘れないと、だめなのかな… この時間に彼はいない。それが現実。もしかしたら、に賭けたのに…うまくはいかない。 黙ったまま、入口の方を見つめ続ける。じっと、姿勢もそのままに見つめ続けた。 「今夜は泊まっていきますか?」 右耳に、いきなり響く人の声。気配すらしなかったから、驚くのも当然で。 「きゃっ!」 なんて甲高い声を出したのも、肩をおもいっきりすくめてしまったのも、仕方がない。 右肩にあった声の主が、後に引きながらくすくすと笑っている。 ゆっくりと振り返れば、ベッドに腰かけている看護婦さん。 「も、もぉ…びっくりしたじゃないですか!」 「ごめんごめん。だって、ものすごく切ない後ろ姿していたから」 どきどきする胸を押えながら、真っ赤になって怒る桜子。 そんな様子に、看護婦さんは相変わらずの笑顔。器用に頬杖をつき、口を開いた。 「なーに、もうホームシックなの? だめよ、ここに戻ってきちゃ」 「そんなんじゃありません。ただ…時間があったから」 真っ赤のままの桜子の反論も、だんだん声が小さくなっていく。うそは下手だった。 時間があったから、じゃない。わざと時間を合わせたのだ。この病室にいられるように。 「そうなの。ところで…今、誰か探していたでしょう」 うつむいた桜子を見て、いたずらそうに首をかしげて、断定的な言い方をする。 明らかに、何か言いたそうな感じだから、桜子はあいまいに返事をするしかない。 「探してなんて…」 「昨日ね、その木から男の子が落ちたんだけど…桜子ちゃんには関係なさそうね」 「木から…落ちた?」 はっ、と息がつまりそうになった。 そんな事をする男の子なんて…絶対にひとりだけ。 桜子の瞳は潤みはじめる。どこか震えて聞こえる声は、心配しているからだろう。 関係あるから心配になる。心配しているから態度にでる。感情に表れる。 「そう。今ごろの時間に、ここの掃除をしていたら、急にどすんって音がしてね…」 「木から落ちたって…その男の子、どうなったんですか? 大丈夫だったんですか?」 詰め寄らんばかりの勢いで、まくしたてる口調は普段の桜子からは想像できなかった。 看護婦さんは焦ったように両手を振ると、ひきつった笑顔を作った。 「だ、大丈夫だったみたい。落ちてすぐに走って逃げていったから」 「だって…ここからって、かなり高いじゃないですか」 焦って振り返った桜子の背中に、看護婦さんの意味深長な視線がささった。 窓を開けたのは、地面を見るため。 ベレー帽を右手に持つと、乗り出すように下を確認する。 だが、何かがあったようには思えなかった。 「人間って、思っているよりも丈夫なの。少なくとも、致命傷は負ってないわ」 「そんな事言ったって…」 「たぶん…あの子、この部屋覗こうとしてたのね。まったく…困るわね」 冷静さを欠いた桜子の仕種を見て、やっぱりね、と口の中でつぶやいた看護婦さん。 全開の窓。冷たい風がびゅーびゅーと吹き込んでくる。そっとナースキャップを押えた。 「だからカーテンをしていたのよ。人がいないにしても、そういうの気持ち悪いし」 看護婦さんの話は聞こえているだけ。小さなかけらすら見逃さないように、一生懸命。 だが、その男の子が怪我をした痕跡はなさそうだった。落とし物すらなさそうだ。 …りゅうのすけ君…本当に大丈夫なの? 心配しても、確認のしようがない。 彼と連絡をとる手段は、この木だけなのだから。 ため息をつき、無事である事を小さく祈る。怪我なんてしていない事をそっと願う。 桜子は、根元から、幹に添うように顔を上げていく。 考えてみれば、こんなふうにこの木を見た事がなかった。 近くにありすぎたから、敢えて見ようとも思わなかったから。 登りにくそうな、直線に近い幹。樹皮はいかにもごつごつしていて、素手では痛そうだ。 それなのに、この木を毎日登ってきてくれていた。手をすり傷だらけにしながら。 風だって、かなり強い。おまけに冷たい。それでも、会いに来てくれていた。 …なのに…文句もなにも言わないで来てくれていたんだ。元旦まで…来てくれたんだ。 涙が出そうになった。右手で口を隠した。心が詰まり、思い出が溢れてくる。 顔を上げれば、そこは彼の指定席。ぼんやりと、その姿が見えるような気がする。 …りゅうのすけ君…会いたいよ… そう。会いたい。ただ、会いたい。りゅうのすけという、優しい男の子に会いたい… 「ね。桜子ちゃんは、その男の子の事、何か知らない?」 本題だから真剣。足を組み、少し前かがみになったのは、まるで詰問するかのよう。 そんな雰囲気を背中で感じるから、桜子は身体を病室に戻した。窓をぱたんと閉めた。 そして、ゆっくりと振り返ったが、まつげを伏せたまま、口を開こうとはしなかった。 「あ…別にね、とっ捕まえようとか、そういう事じゃないのよ。 ただ、その事を知った患者さんがね、またあったらって、こわがっちゃって…」 顔を上げた桜子の、瞳は少し濡れていた。だが、そこには強い意志がこもっていた。 「たぶん…もう、来ませんよ。ここには」 それ以上は話したくないのか、口を真一文字に閉じると、また、窓の方に身体を向けた。 「そう」 看護婦さんも、それ以上を聞こうとはしなかった。ただ、その言葉は信じている。 枝にある葉っぱたちが風に揺らされている。耐えきれずに、宙に舞う葉も少なくない。 ガラスが少し曇ったから、手でそっと透明を作る。そのすき間から見える、病院の入口。 「お母さん…」 その入口で、大きく手を振っている母親。どうやら、用事はもう済んだらしい。 一瞬、りゅうのすけとだぶって見えたのが、なんとなく恥ずかしかった。 ふたりが足を止めたのは、出入口の扉の前。看護婦さんのお見送りもここまで。 「ひとつだけ…いいかしら」 向かい合い、口を開いたのは看護婦さん。こくん、と桜子は首を縦に振った。 「夜中に…病院の外でお別れしてたでしょ。あれ…桜子ちゃんの恋人?」 桜子が入院中のデートの時の事らしい。看護婦さんには見られていたようだった。 別れ際、最後まで見送ってくれた彼を思い出す。笑顔がふっとよみがえる。 「そんなんじゃ…ないです」 うつむいたのは照れたからではない。そうでない事が、なんとなくさみしく思えたから。 しばらく、沈黙。看護婦さんは桜子を見つめ続ける。小さい身体は動きがない。 だが、病気が治りはじめているのはよくわかる。看護婦さんも、三年間の付き合いだ。 「私ね。あなたの病気がよくなったのって…その彼のおかげかなって思っているのよ」 桜子ははっとして顔を上げた。 りゅうのすけ君のおかげ…そう。たぶん、彼のおかげ。 看護婦さんが前に言っていた。心を満たしてくれる、って。本当にそうなんだと思う。 そして…今、こんなに心を苦しくさせてくれる。切なくさせてくれる。 だから、また会いたい。絶対に、会いたい。その気持ちは、心を強くしてくれる。 「本当に大切になさいな。あなたの事、ずっと見ていてくれてるのだから」 自然と胸を押えたのは、心を押えたつもり。 桜子は、はい、と素直に返事をした。 「なーに。ホームシックなの?」 相変わらず、交通量の少ない八十八駅前。信号待ちに車を止めた母親がくすりと笑う。 カーステレオから流れる、シャロン=アップルのやたらと甘い歌声に、 怪しく身体を揺らしながら、娘の横顔をじっと見つめる。 さっきから、つまらなそうに前の景色を眺めているだけで、話にのってこない桜子だが。 「…うん。そうかもしれない」 正面を向いたまま、神妙な面持ちで言われては、母親でなくとも心配してしまう。 エアコンの吹き出し口をじっと見つめたまま、桜子の頭に浮かぶのは彼の事。 …りゅうのすけ君に会うには…あそこにいないとだめだもんね… やっぱり…うづきちゃんに聞いてみようかな。電話番号ぐらい教えてくれるよね。 でも…りゅうのすけ君の事嫌っているみたいだし…自分でなんとかしないとだめかな。 どうすれば会えるのかな。学校が始まったら、八十八学園で待ってみようかな… うつむいて、自分の世界に入り込む。 だが、それを阻止したのは同席している運転手。 「ねぇ。家って、そんなに居心地悪いの?」 「あ…じょ、冗談だからね。実はね、看護婦さんにも同じ事言われたの」 「そりゃそうよ。時間があるからって、なにも病室に戻らなくてもいいんじゃない」 努めて作る笑顔の苦しさ。一瞬で真顔に戻ると、間が辛くて左側に首を向けた。 同時に車が動き出す。隣のタクシーがフライング気味に出ていくのに、つられた格好だ。 相変わらず人の少ない八十八駅。動き出す景色の中、女の子に声をかけた男の子がいた。 一瞬にして見えなくなって、結果まではわからなかった。けど…現場を見たのは初めて。 「あの子、よく八十八駅でナンパしてる、って聞いたから…前から心配していたのよ」 ふと思い出す母の言葉。 ここで…りゅうのすけはナンパなんてしているのだろうか? もし、ここで彼を待っていたら、声をかけてくれるだろうか。会えるのだろうか? 「ところで、明日の帰りなんだけど…八十八駅で待ち合わせでいいかしら」 現実の母親の言葉。ハンドルをほとんど動かさない、法定速度ののんびりドライブ。 二車線の道。前後に車はいないから、飛ばそうと思えば飛ばせるのだが。 「どうして?」 「明日ね、お昼に仕事の打合せがあるのよ。それで、病院にずっといられないから」 「…私だってひとりで帰れるから、待ち合わせなんてしなくても大丈夫」 憮然としながらも嬉しそうな声。子供じゃないんだから、とつけ加えたのは心の中。 だが、母親の顔は真剣に心配しているように、少々険しくなった。 「なに言ってるのよ。如月駅からが心配なのよ。バスにしたって結局歩くしね」 「でも、出歩いた方がいいって、大学病院で言われたばっかりなのに…」 「とにかく、明日は八十八駅に三時ね。それまで、一生懸命歩いてらっしゃい」 前方には如月大橋。渋滞の名所も、昨日も今日もさすがにスムーズに流れていた。 とても広い河川敷。その中心を申し訳なさそうに、少し淀んだ水が流れている。 気がついたら、もう夕焼けの街。少しづつ、オレンジ色に染まっていく。 おかず買って帰らなくちゃ、と母親が言った。桜子は、うん、と小さく返事をした。 病院で着ていた、今も着ている、着慣れたねまき。 あまり冷えないこの部屋でも、黒のショールを羽織り、それで落ち着く自分がなんともおかしく思えた。 夕ご飯もこの格好。明日までいる祖父や祖母も、病み上がりだからと納得してくれた。 お風呂上がりもこの格好。これが一番過ごしやすい。のんびりと、リラックスできる。 一日経っただけて、ほとんど違和感を感じなくなった自分の部屋。ベッドの上。 テレビを見ようとも、家族といっしょにいようとも思わない。ここが一番落ち着ける。 もう夜。明日も検査だから、なるべく早く寝なさいよ、なんてお母さんが言っていた。 けれど、なかなか寝つけなかった。だから、無理をしないで時間をつぶす。 うつ伏せになる。あごをまくらの上に乗せて、病院で読まなかった雑誌をめくる。 特集のページには、可憐がたくさんいる。本職のモデルさんも顔負けの、可憐の多さ。 …こういうの、いいなぁ。 なんて、可憐の着ているロングコートが可愛く思える。ポーズもさまになっている。 だが、さほど一生懸命読むほどの記事があるわけでもなく、気になるところだけ見る。 可憐のインタビュー。この冬に使えるアイテム特集。 そして、ありきたりな、街で見かけた格好いい男の子たちのページ。 期待もせずに捜してみたが、やっぱり載っていない。 …りゅうのすけ君。今ごろどうしているのかな… ページをめくる手を止めて、首の力を抜いた。目をつむったのは、彼を思い出すため。 木の上の彼。裏庭の彼。いろいろな噂の中の彼。そして、本当に何もわからない男の子。 …私の事なんて、忘れているかもしれないのに… 自分がそうだったように、彼もそうなのだ。桜子の事など、調べようもないのだから。 だから、忘れようとしているかも。 こんなに切なくて、さみしくて、会いたくて…それなのに、どうする事もできないから。 そうする以外、会わずに済む方法はないのだ。 …どうすればいいのかな… 相談したかったのに、うづきはまたもや留守番電話。切り札のひとつは使えない。 朝も夜も誰もいないのだから、おそらくおばさんと旅行にでも行っているのだろう。 他にもいろいろと考えてはいるけれど、どれがいいのかなんてわかりはしなかった。 …やっぱり、学校が始まるまで待った方がいいのかなぁ… 退院したからと言って、使える時間が増えたわけではない。むしろ、制約は多かった。 そんな中で彼を探す。楽ではない。けど…仕方のない事。 これくらい頑張らないと、神様だって会わせてはくれないだろう。 そんな事を考えて、頭を上げた。また、本を見る。 真ん中は星占いのページ。悪い事しか当たらないから、あんまり信用はしていないけど。 指でなぞり、自分の星座を捜し出した。元旦から、一週間の運勢が書いてある。 「健康運…最大の敵は風邪。お正月だからといって、はめをはずすと大変な事に…」 「金銭運…出入りの激しい一週間。入った分だけ出ていく感じ。節約もきびしそう」 「恋愛運…積極的な行動が、彼の心を掴むはず。友達関係だからってあきらめないで」 「 彼がいるのなら浮気に注意。一緒に初詣に行くと、一年間上手くいきそう」 「ラッキーカラー…赤 ラッキーナンバー…三 ラッキーアイテム…やきとり」 恋愛運の項目を、何度も何度も目で追った。今回は悪い事は書いていない。 桜子は、まるでばんざいをするように、両手をおもいっきり伸ばした。 それでも、ベッドにはまだまだ余裕があった。 「積極的な行動、だって…」 つぶやいた、と言うには、あまりにも決意の込められたつぶやきだった。 (続) |
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