小説
2002. 1/ 8




春を待つ季節-後編-〜Side Stories From ClassMate2 #3〜


1/5(土)
 朝からごそごそと、小さいバッグになにやら準備をしていた桜子。
まるで秘密の物でも隠すかのように、ベッドの下にそれをしまった。
次の瞬間…ノックとお母さんの声。
「桜子、寝ちゃったの? みんな来たから、ちゃんと顔ぐらい出しなさいな」

 七尾のおじさん。飯山のおばさん。親戚一同、桜子の家に集まってきた。
お昼前に全員集まり、さすがにこの人数が集まると狭い部屋でわいわいとやりだした。
もともとこういう事が苦手な桜子。何回か抜け出そうとしたが、誰かしらにつかまっては、
ひきつった笑顔と心の中のため息でこなしていた。
出されているのはおせちのようなもの。お昼も兼ねているから、桜子もはしをだす。
卵焼きをつっついてから、つまらなそうに口に運ぶ。市販品なのか、異様に甘い。
…早く電話こないかなぁ…
後味を、ウーロン茶で無理矢理流し込みながら、斜め後の電話台を切なそうに見つめる。
早く抜け出したかった。それに、うづきにきちんと言わねばならない事もあるから。
「信じてるから、桜子の事。好きな人できたら、私に言ってくれるって」
友達として、うづきにははっきりと伝えておきたかった。
約束ではないが、信じていると言われたから、この気持ちをちゃんと告げねばならない。
「桜子が本当に本気なら応援するわ、友達として」
本当は、誰かに言わないと胸が詰まってしまいそうだったから。それくらい苦しかったから。
まだ、相手の事はほとんど知らない。ほんのわずかな些細な事がわかっただけ。
だから、相談できる人がほしい。応援してくれる人がほしい。
ひとりに慣れていても、こういう事は…ひとりは無理。
うづきなら、頼りがいもあった。
「桜子ちゃんももう大人だ。これくらいいけるだろう」
突然、目の前にコップが置かれると、麦色の液体と白い泡でできた飲み物が注がれた。
驚いて隣を見れば、真っ赤な顔をしたおじさんが、桜子を見てにやりと笑っている。
「…ごめんなさい。私、まだ未成年だから…」
「いいのいいの。お正月ってのはね、何をしても罰せられないんだから」
飲ませたくてたまらないのだろう。ほらほら、と無理をしてでも流しこませそうだった。
酔っ払いには日本語が通じない、と母親がよく言っていたが…桜子の顔がこわばった。
「大丈夫だって。一杯くらい飲めないと、いい男捕まえられないよ」
余計なお世話ですっ、と言いたいのをぐっとこらえて、愛想笑いを浮かべる桜子。
目の前のコップは、広告のように結露ができて、おいしそうに見えない事もない。
「飲んだらねぇ、こんなに旨いものがあったのかって、驚いちゃうぞ」
おじさんの幸せそうなしわに、桜子は思わずコップを手にしてしまった。生唾を飲んだ。
唇をつけると、きつい匂いが鼻についた。だが、中身は本当においしいのかも…
「こらっ、そんなの飲まないのっ!」
背中から、鬼のような声。驚いてコップを机の上に置く。そして、そろりと振り返る。
「うづきちゃんから電話よ。兄さんも、桜子にあまり悪い事教えないでよ」
めっ、と鬼のような目で怒っているお母さん。
相手に聞こえないように、両手で受話器を押さえている。
…いつベルが鳴ったのかなぁ。
桜子は逃げ出すようにして立ち上がると、猛烈な勢いで受話器を奪いさった。
そんな仕種に、お母さんにまたもにらまれたから、ごめんね、と手で謝った。
「あ、うづきちゃん。おまたせ」
「なーに、宴会でもやってるわけ?」
「…うん」
引き戸を閉めたくらいでは、廊下に声は漏れてくる。人数が人数だから、大きくなる。
うづきの脳天気な声が、桜子にはちょっとむっときた。私はやってないもん…
「そんな状態で大丈夫なの。なんだったら、明日にしようか?」
「できたら今日がいいの。だから、うづきちゃんの家に行きたいんだけど…だめ?」
「別にいいけどさ、親戚の人が来てるのに、家を抜けられるの?」
普通にしてればたぶんだめだろう。
桜子に会いに来るようなものだから、とにかく家にはいなさい、とお母様に厳命されているし、
今夜泊まっていく人もいるらしい。
夕方に会おうと思っても、これではどうしようもなかった。
「…それでね、もうひとつ…相談があるんだけど」
受話器をぎゅっと握って、まるで盗聴する刑事のように目を細めた。
口元を隠したのは、秘密の作戦だったから。
宴会の声にかき消されて、桜子の小声は電話の先だけにしか聞こえなかった。

 透明すぎる夜だから、お星様はきらきら光る。冷えきった空気が、耳に痛いくらい。
白い息ですら凍りつきそうで、桜子はできるだけ早足で暖をとれる場所へ急いだ。
ようやく辿り着いたうづきの家。このアパートの最上階である、二階の一室だった。
「杉本桜子だな。逃走の現行犯で逮捕するっ!」
玄関先で出迎えてくれたのは、右手でピストルを真似たうづきだった。
眉間にしわを寄せた表情が妙にはまっていて、桜子は思わず吹き出してしまった。
「なーに、テレビでも見てたの?」
扉を閉め、右手の小さなバッグを脇にちょんと置いた。そして、くつを脱ぎだす。
立ったまま片足を器用に持ち上げて、なんとなく行儀が悪いが、これが一番早かった。
寒くて寒くて、奥の部屋に見えるこたつの中に、早く入りたくてしょうがなかったのだ。
「…違うわよ、まったく」
なんとも恐い声を出す。うづきは仁王立ちしたまま、桜子をじっと待っていた。
だから、桜子は不安そうな笑みを浮かべて、上目づかいにそっと尋ねた。
「ど…どうしたの?」
「あんた、おばさんに黙って出てきたでしょう。指名手配が家にも来てるのよ」
さすがに令状までは見せなかったが、うづきの表情はこわばったままだった。
ばつの悪そうな笑顔に変わると、乾いた笑い声が出てしまう。そして、うつむく。
「だってぇ…」
「ほら、とにかく上がってさ。おばさん、すごく心配してたから、電話しておきなよ」
うづきがようやく後に引くと、奥のこたつにさっさと戻ってしまった。
典型的なアパートらしいこの一室。手前の部屋が玄関と台所。真ん中と奥は居間兼寝室。
おじゃまします、とつぶやくと、そそくさとこたつに向かおうとした。だが。
「そこに電話あるでしょう。こたつに入りたいなら、きちんと連絡してからだぞ」
台所脇の電話を指で示すと、うづきはにやっと笑った。行動は読まれていたらしい。
不満そうに唇を尖らせる。ぶつぶつと言いながら、言われたとおりに受話器を取った。
「電話借りるね。ところで…お母さん、なんて言ってたの」
「もしこっちに来たら、捕獲しておいて、って」
こたつの上にみかんがあるのはごくごく自然。ふとんから手を出すと、ひとつ取った。
桜子は、受話器を取ったはいいがどこか番号が抜けているらしく、首をひねっている。
オレンジ色の皮を剥きながら、うづきは桜子の家の電話番号をゆっくりと口にした。
それを聞きながら、恥ずかしそうにボタンを押す。聞けばなんとか思い出せた。
「あ、お母さん。桜子です…」
こたつの上でひざを立てて、みかんを一房、口に運んだ。甘酸っぱい、この季節の味。
ち、違うよぉ、なんて桜子は電話の先へ一生懸命に反論する。声も大きくなってきた。
うづきはそんな様子を横目で見ながら、くすくすっと笑っていた。

 こたつはぬくぬく。横になっていると、まぶたがだんだんと重くなっていく。
遠くで聞こえるシャワーの音も、心地好い子守歌。両腕を重ねてまくらを作る。
うづきがお風呂の間に、桜子も着替えを終えていた。もちろん、愛用のねまきだ。
こたつの中で小さく身体を丸めてうたた寝。眠る事がとっても気持ち良かった。
母親との交渉の結果、うづきの家での宿泊を認可してもらったのだ。
だから、後ろめたい事もなくなって、こんなにのんびり開放気分。
明日のデートの事なんて夢見ながら、むにゅむにゅと桜子は眠りに落ちていくところだった。
「あー、こたつで寝たら風邪ひくよ。今、ふとん敷いてあげるから待ってな」
お風呂上がりのうづきが大声を出したから、桜子は目をこすって起き上がった。
大きなあくびをしても、まぶたは半分閉じている。まだ、しょぼしょぼしている。
「…大丈夫。ちょっと目をつぶってただけだから」
「無理しなくてもいいよ」
「大丈夫ったら大丈夫」
「…じゃ、桜子の言葉を信じて…少し付き合ってもらおうかなぁ」
メンズのパジャマ。頭から垂らしたタオル。その下から、にやにやがのぞくうづき。
冷蔵庫から、ジュースにしては小さな缶をふたつ取り出すと、こたつの上にのせた。
「…これ、お酒?」
「まさか。大人のジュースよ」
心外そうに大きく目を見開くと、好きな方を取っていいよ、と桜子に言った。
オレンジの絵と桃の絵。少しピンクの色が濃い、桃の絵が書いてある缶を選んだ。
まだ身体がぽかぽかしているからか、こたつには入らないうづき。
桜子の向かいの座布団であぐらをかくと、オレンジの絵の入った缶を手にして、ふたを開けた。
「ほら、桜子も開けなよ。乾杯しようよ」
「…私でも飲めるのかなぁ」
「大丈夫。弱い私だって飲めるんだよ。桜子に飲めないわけがないよ」
缶を持って待ち構えるうづきに悪くなって、桜子もためらいがちにふたを開ける。
「じゃあね、桜子の退院を祝して…かーんぱいっ」
「…かんぱい」
こん、なんて、乾杯らしくない音ではあったけれど、とにかくお祝い。
うづきがぐびぐびと飲むのを見て、桜子もちょびっと口をつけてみた。
まるで炭酸の入った桃のジュースみたいで、アルコールの味なんて微塵もなかった。
「お酒の味、しないんだね」
「だから言ったでしょう。大人のジュースだ、って」
その割には、うづきの顔は真っ赤になっていた。なるほど、彼女は弱そうだった。
手の平で缶を包み込み、ちびちびと飲んでいく桜子。頬杖をつき、眺めるうづき。
退院して、久しぶりに桜子の家に行って…今はこうしてふたりで飲みはじめている。
なんとも不思議な感じだった。
最後のお見舞いの時には、もう少し時間がかかると思っていたのだから。
「ねぇねぇ、うづきちゃん。おばさんはどうしたの?」
「明日の夜にはいなかから帰ってくる予定なんだけど…どうかな」
「どうして?」
「だって、食事も掃除も洗濯も仕事もなくて、ごろごろできるんだもん」
うづきが外国人のように大げさなゼスチャーを見せると、桜子はくすくす笑いだす。
お見舞いの時の仕種とはまったく違う桜子だから、うづきもまた口元が緩む。
…恋色の奇跡、なのかな。
いつの間にか、ほんのりと頬を染めている桜子。その色は、いかにも淡い恋の色。
桜子から始めてくれないのなら、こっちからしかけてみますか…
「ね、そろそろ本題に入ろうよ。桜子の相談、しらふの内に聞いておかないとね」
うづきは片ひざを立てて、渋いおじさんのような缶の持ち方をしている。
表情は笑っているが、目はあくまでも真剣そのもの。缶に口をつけた。のどが鳴る。
桜子も、崩していた足を戻して正座する。小さな深呼吸を三回して、正面を見る。
「その前にね、うづきちゃんにきちんと言わないといけない事があるの」
「なに?」
「あのね…友達だから、きちんと言うね。私…その、ね…好きな人が、できたの」
顔中が真っ赤に染まったのも、鼓動が早くなりだしたのも、お酒のせいだけではない。
言葉につかえて、どもって、それでも言うべき事は言わねばならない。
そのために家を抜け出してまで、うづきに会いに来たのだから。
「その人ってさ、私が応援できる人?」
大人のジュースのおかげなのか、下を向かず、真剣なうづきの目をしっかりと見据えたまま、
はっきりとした声で自分の想いをきちんと伝えようとする。
深呼吸、ひとつ。
「…うん。私ね…私、りゅうのすけ君の事が好きなの」
さすがに言い切った後は、うつむいてしまう。のどが乾くから、缶の中の液体で潤す。
たくさんの安堵感と、ほんのわずかの後悔。しばらく、ふたりの間は黙ったまま。
「そう」
うづきは缶を自分の横に置くと、またあぐらに戻した。
両手ですねのあたりをつかむと、自然と笑顔になっていた。
予想どおりでも、告白してくれるのは嬉しかった。
「あー、なんで笑うの。あのね…ものすごく本気なんだからね」
桜子は、こたつの上に身を乗り出して、にこにこしているうづきに詰め寄った。
お酒がまわってきたのだろう。どうにも絡むような口調になっていた。
ただ、全身が真っ赤になっているのは、こたつの熱さや一杯のお酒では説明がつかなかった。
「だって…昨日の帰りさ、あんたの顔に同じ事書いてあったから…」
少しあごを引いたうづきの目は、いつの間にか、にこにこからにやにやに変わっていた。
暑いのは桜子と同じで、頭のタオルを後ろにほおってから、缶の中身を飲み干した。
「もぉ、本当に意地悪なんだからぁ」
「素直に言わないあんたがいけないのよ」
「そんな事…簡単に言える事じゃないもん」
また缶に口をつけて、ほろ苦い液体を味わおうとするうづき。
だが、先ほどので終わってしまったらしく、からからと振ってみても、重みがまったく感じられなかった。
だから、よっこらしょ、と重い腰を上げた。
そして、よろよろと、まるで病室の桜子のように危なっかしい足取りで冷蔵庫へ向かう。
「だけど、でも、本当に本気なんだからね。本当に…好きなんだもん」
冷蔵庫の扉を開けるうづきに、桜子は文句をつける。どうにも真剣には見えないからだ。
だが、うづきの方は気にかけるわけでもなく、冷気の中に顔を、手を突っ込んだ。
「はいはい。あんたもまだ飲むでしょう?」
不満そうに唇がとがっている桜子。大きくうん、とうなづいた。
だから、うづきは缶を何本か取り出し、おぼんにのせる。
ついでに、おつまみになりそうな物を適当に出した。
「うづきちゃん。私、そのぶどうの絵のがいい」
こたつに戻る前に早くも予約済み。うづきのに苦笑いも気がつかないのは、酔ったから。
こたつの上に広げる前に、桜子は強引に奪い去った。そして、ぐびぐびと一気飲み。
最初の一杯よりも、全然おいしい二つ目の缶。マスカットの絵のように、さわやかな味。
「…もぉ。うづきちゃん、ぜんぜん真剣に聞いてないでしょう。ひどいよぉ」
すねたような口調がかわいくて、頬杖をつくうづきは目を細める。ナッツを口にした。
それから、しばらくじっと桜子を見つめて、うづきは言いたかった事を告げた。
「ごめん。でも、桜子の顔見てれば、どれくらい本気かわかるよ。もう何も言わないよ」
「本当に?」
桜子の上目づかいは甘えている目。両肘を立てて、三杯目の缶を両手で包み込んでいる。
ようやく二杯目のうづき。二度三度、ごくっごくっ、とのどを鳴らしてから言った。
「本当よ。約束どおりに、きちんと応援してあげる。お姉さんにまっかせなさーい」
「うん。ありがとう、うづきちゃん」
真っ赤な顔をして、えっへんと胸をはったうづきに、桜子はぱちぱちぱちと拍手をする。
もう、ここまでくるとただの酔っ払い。自覚もあるが、こんなに楽しいお酒は初めて。
桜子も、にこにこと笑顔が絶えない。本当に楽しんでいるように見える。だから。
「じゃあ、桜子の恋愛成就を祈願して、かんぱーい」
「かんぱーい」
ふたり仲良く缶を天に突き上げた。今夜の宴はまだまだ続きそうだった。

 こたつの上は乱雑に、開けてあるのもないのもごちゃごちゃの缶。
おつまみだって、お皿からはみ出している。
自分の前だけは綺麗にして、桜子はあごをのせている。
「りゅーのすけ君ってさぁ…本当に同棲しているのかなぁ」
ころん、と桜子の首が曲がった。物干し台へとつながる窓には、複雑模様のカーテン。
その模様をぼんやりと、重たいまぶたの下から眺めている。
「本人に聞いたんでしょう? だったらさ、信じればいいじゃないのよ」
うづきは自分の前髪をもてあそぶ。視界をじゃまする髪の先に、ほとんどダウン寸前の桜子。
まるで別人のように、あれだけべらべらとしゃべったのだから、疲れたのだろう。
病室での不思議な出会い。窓越しの会話。夜のデート。駅での再会。明日のデート…
お酒がまわって饒舌になった桜子は、りゅうのすけとの関係をほとんど話してしまった。
だから、同棲していない、と本人の口から聞いた事も喜々としてしゃべったのだが。
「信じているよぉ。だけど…だって…気になるんだもん」
桜子は同じ格好のまま、唇を尖らせて子供のように拗ねる。
だが、うづきにだってそんな事はわかりはしない。
うづきにとっても、しょせんは噂を信じているだけなのだから。
「それじゃあねぇ…明日、デートの時にあいつの家に押しかけてみなよ」
「そ、そんな事…できないもん」
顔を上げてうづきを見た。相変わらずにやにやしているけれど、提案は本気らしい。
その瞳に気圧されるように、桜子はまたこたつの上に頬をのせた。今度は玄関を見る。
「…いるならいる。いないならいない。はっきりさせないと、あんたが苦しむんだよ」
「そうかもしれないけど…だって…でも…だけど…」
「だけど、なによ」
桜子はなかなか返事をしない。うづきの手にしていた缶が空になっても返事はなかった。
ビーフジャッキーをなめなめして、飲み込んでも返事はなかった。ようやく動くうづき。
「おーい、こら。だけど、なんだよぉ」
こたつの上に乗り出して、無防備な桜子のほっぺたをつついてみる。
だが、それでも反応はなかった。今度は目の前で手を振ってみるが、これも反応なし。
「ん…寝ちゃったのか。ずるいぞぉ」
正面にまわると、桜子はなんとも気持ち良さそうに、無邪気な寝顔を見せていた。
…まったくもー。お布団敷かなくちゃ寝れないんだぞ。
桜子の寝顔を見たら、急に眠気が襲ってきた。身体もなんだかだるかった。
だが、最悪でも桜子はお布団で寝かさないと、風邪なんてひかれたら大変だった。
桜子にはデートの事で怒られそうだし、おばさんには病気の娘を、と怒られそうだから。
ふらふらと、うづきの千鳥足はなかなかのもの。
真ん中の部屋の押し入れを開けて、自分の敷き布団を乱暴に引っ張り出して整える。
そして、掛け布団に毛布にまくらに…あれ、なんでまくらをふたつ出したんだろ?
ちらりと横を見れば、なんとも気持ち良さそうにくーくー寝ている桜子の姿があった。
ああ、と納得。狭い布団に、まくらを強引にふたつ並べて、うづきは笑みを浮かべた。
…すんごく狭そうなんだけどぉ。
ひとりでくすくす笑いながら、うづきはこたつで突っ伏している桜子に近づいた。
あとはこの酔いつぶれた娘をふとんに寝かせるだけだった。

1/6(日)
 頭が痛いし、重いし、だるいし。おまけに食欲もなくて、なんだか気持ち悪かった。
左側の窓から、お日様の光が入り込んでいて、そのまぶしさも桜子を弱らせる。
今日は快晴。風もさほど冷たくないらしくて、デートにはもってこいの日…なのだが。
寝起きをそのまま持ってきたような桜子。ねまきのまま、正座を崩して座布団の上。
朝ごはんは特製雑炊。こたつの上の小さい土鍋。だが、食べているのはうづきだけ。
よそってくれた小皿一杯分すらどうにもだめで、向かいの食べっぷりに感心してしまう。
「…よくそんなに食べられるね」
「なーによ。病人みたいな顔をして」
ちょっと遅い朝食だけれども、うづきはパジャマ姿でばくばくとお茶碗から流し込む。
相変わらず元気いっぱいのうづきの姿に、桜子は唇を尖らせてすねてしまった。
「…病人だもん」
「ばか言わないの。あんたのはただの二日酔いよ」
そう言って吹き出すと、うづきは三杯目をおたまでよそった。これまたお茶碗に山盛り。
その量に、桜子はへきれきしながらこめかみのあたりを強く押さえた。
「頭が痛いよぉ」
「それでも、無理してでも食べておかないと、デートまで持たないぞ」
デート、という言葉には反応するのだが、いかんせん体験した事のない病気だけに、桜子の気持ちは盛り上がらない。
とにかく、こんな状態で彼と会いたくはなかったのだ。
鏡で見た、起きたての自分の顔のひどさに、思わず泣きそうになったくらいだった。
りゅうのすけと会いたいし、デートもしたい。けど、もっと体調のいい日がよかったな…
そんな気持ちを知ってか知らずか、うづきはお茶碗を置いてにやにやと笑い出す。
「もしあいつの前でお腹が鳴ったら、桜子ちゃんはどうするのかなー」
「…で、でも、気持ち悪いんだもん。だいたい、うづきちゃんがお酒飲ますからだよぉ」
「ああいう席で、そういう事言うのは反則だぞ。それに、私はそのつもりだったし」
「もぉ…」
食べられない事はないけれど、無理して食べようとは思わなかった。
だが、そんな場面をイメージしてしまうと、お酒も飲んでいないのに、桜子の顔は真っ赤に染まる。
「じゃあさ、せめてシャワーくらい浴びてきなよ。そうじゃないと、お酒臭いぞ」
うそだよぉ、と桜子は袖のあたりを鼻に近づけると、いかにも嫌そうな表情をした。
「けっこう匂うでしょう。初デートに使う香水じゃないぞ、それは」
うづきはお茶碗を手にして、半分くらい残っているご飯を食べようと、はしを動かす。
「これって…シャワーで落ちるの?」
お茶碗を下ろせば、不安そうな表情でうづきを見つめる桜子がいた。だから、笑顔。
「熱いシャワーを浴びて、お酒を抜くの。それから、服を着てさ、髪をとかして、編んで…
そんな事をしているうちにね、だんだんと昨日の感覚を思い出すわけ」
「…昨日の感覚、って?」
「デート、って言葉でさ、桜子はいろいろと楽しい事を想像してたじゃない。そーれ」
普通の女の子の恋にあこがれていた。普通に男の子とデートする事に夢を見ていた。
今までは想像だけだった事。それが、現実となる。しかも、相手は本当に好きな人。
だから、いろいろと期待して、楽しみにして、どきどきわくわくしていた。
酔っていたとしても、うづきに話した夢は、桜子の本当の本音だった。
酔っ払いの戯言なんかではなく、夢を見る力を失っていた女の子の夢の言葉だった。
うつむき加減の桜子は、何かを思い出したように頬を染めていた。
「ほら、時間もあまりないんだからさ。それだけでも食べて、シャワー浴びちゃいな」
「…うん」
はしを手にしながら、時計を確認する。
なるほど、あまり余裕がなさそうだから、桜子は少し焦りだしていた。

 日除けの屋根なんてあるはずもなく、さびの目立つポールがあるだけのバス停。
少し古ぼけた、プラスチックの長椅子があったから、うづきはそこに腰を下ろした。
次のバスは五分後。待っているのは桜子とうづきだけ。乗るのは桜子ひとりだけ。
唯一のお客さんは、うづきの目の前を行ったり来たりして、落ち着きがなかった。
二日酔いでふらふらだった朝からがらり一変、とまではいかなくても、
昨日飲んでいた痕跡だけは何とか消せたようだった。
そして今は、少々強ばった笑顔を見せている。
その変貌ぶりがなんともおかしくて、初々しくて、見る目が優しさをたたえてしまう。
「ねぇ、桜子。少しは落ち着きなよ。そんなにうろうろしていると疲れちゃうぞ」
「…だってぇ」
りゅうのすけと病室で会っていた時や、裏庭でデートをした時などとは全然違う感覚に、桜子は戸惑っていた。
りゅうのすけと会う、という事がとても新鮮だった。
病室の、入院中の女の子としてではなく、ごく普通の女の子として会えるのだ。
それだから、不安もたくさんあるわけで。
「ねぇ、うづきちゃん」
「なによ」
「髪、おかしくないよね」
うづきの家からここまで、何度も何度も聞かれた事だった。
だが、そのたびにうづきはきちんと答えていた。桜子の不安がわかったし、少しでも解消できれば、と考えていた。
「…大丈夫。あんだけ時間かけてとかしたんだよ。それに、綺麗に編めてるしね」
「でも、やっぱり…お化粧した方がよかったんじゃないかなぁ?」
せめて口紅だけでも、と桜子は最後までぶーぶーたれていたが、うづきは突っぱねた。
「絶対にすっぴんの方が可愛いって。下手に厚化粧するよりも、その方がいいよ」
「…じゃあ、服装は?」
そう言いながら、うづきの前で一回転。短いスカートがひらりと跳ねて、
すらりと伸びた素足の上まで、あやうく見えてしまいそうだった。
りゅうのすけ相手に無防備すぎる気もしたが、そうかなぁ、と本人はまったく意に介さない様子だった。
だから。
「一番かわいいの持ってきた?」
などと、朝、桜子がシャワーを浴びる前にからかったのだが、
あの怒り方と照れ方からすると、そこらへんもぬかりはなさそう。
「やっぱり…変なの?」
うづきに正面をむける桜子。少し前かがみに、不安げな表情でうづきの顔をのぞき込む。
手で押さえるベレー帽。青と白のストライプのセーター。黒いミニスカート。ストール。
結局、再会した時とほとんど変わらぬ格好だったが、素性がよければ似合って見える。
「ううん。すんごく似合ってるよ」
「本当に?」
「本当だってば」
一通りの質問が終われば、少しは落ち着くらしく、桜子もうづきの隣にちょんと座った。
そして、小さく息をはいてから、伸ばした足をぶらぶらさせて遊んでいる。
そばにいるから、桜子が自信を無くしている事が痛いほどよくわかった。
デートだから、と単純にうきうきして、服を選ぶような事はできない女の子。
横顔を見つめられている事に気がついて、桜子はうづきの方に顔を向けた。
「やっぱり…変なところがあるの?」
「そうじゃなくてさ…もっと、自身もちなよ。今の桜子、すごくかわいいよ」
友達に、そんな事を真顔で言われて照れないわけがない。
耳まで真っ赤に染めて、向かいのバス停に視線を移した。
同じようなバス停に、同じようにバスを待つ老婆がいた。
うづきと桜子には興味がないらしく、じっと正面を見つめていた。
「…うそ」
「本当だってば。友達のお世辞じゃなくてね…十分、魅力的だよ」
桜子の顔をのぞき込むような事はしなかったが、それでも、恥ずかしそうな瞳が見える。
小さな右手の握りこぶし。口元にそれをあてたから、小さい声がつぶやきになった。
「…そうかな」
「変に飾る必要もないよ。だいたい、一番無防備なところを見られているんだからさ」
入院中とはいえ、自分の病室でねまき姿なんて、いきなり男の子に見せるものではない。
最初から懐に入られているのだから、素の桜子で普通に接するのが一番だろう。
「朝はさ、飾らなすぎていたから心配してたの。でも、これで安心かな」
もちろん、うづきの考え方が桜子に伝わったかどうかはわからない。
けど、真剣に聞いてくれた。
うん、と小さくうなづいては、ありがとう、と小声でお礼を言った。
だんだんと、けたたましいエンジン音が近づいてきた。時計を見ればだいたい定刻だ。
桜子は正面を向いたまま立ち上がると、まだ座っているうづきへ顔だけ向けた。
「昨日、今日とありがとう。うづきちゃんといっしょでよかった」
「とにかく楽しんできなよ。帰ってきたら、電話しな。報告するんだぞ」
「うん。それと…お母さんの事、よろしくね」
りゅうのすけとデート、などと言えるわけもなく、うづきと遊んでいる事にしてもらったのだ。
出てくる前に電話を入れて、あとはばれないようにするだけだった。
それも、相談のひとつだったらしい。そんな事、とうづきは笑っていたけれど。
「…人を共犯にして、自分だけデートなんてさ。楽しまなかったらせっかんするぞ」
いたずらそうに目を輝かせるうづきに、桜子は笑顔を見せて、こくんと首を縦に振った。
…りゅうのすけが桜子の病気を治したのかな、やっぱり。
ふたりの関係がわかってから、そう信じていた。毒をもって毒を制す、なのかな…
社台カラーの車体がものすごい音を奏でながら、停留所の横にぴったりと止まった。
その騒音に、桜子もうづきも最後の言葉を交わすのをあきらめてしまった。
後のドアが開く。一度だけ、緊張の面持ちで振り返る桜子。だが、次の瞬間にはステップを上がっていく。
降りる客はいないらしく、桜子を飲み込むとドアは閉まった。
少し猫背気味に座るうづき。ほほ笑みといっしょに右手の指をひらひらとさせた。
明るくない車内で、桜子も手を振っていた。堅い笑顔に苦笑いしたものの…でもデート。
…ま、本当に楽しんでおいで。
派手な色使いのバスは、派手な音を撒き散らしながら、どんどん小さくなっていく。
うづきは頬づえをついたまま、見えなくなるまで見送っていた。

 どうやって家に帰ってきたのか、桜子ははっきりと覚えていなかった。
りゅうのすけの家から八十八駅へ出て、電車で如月駅。あとは、バスと徒歩。
それしか覚えていなかった。
途中の景色なぞ記憶になかったし、他人の顔なんて見られやしない。
玄関に腰を下ろして、桜子はゆっくりと靴を脱ぐ。そして、きちんと並べ直した。
本当は、走ってでも自分の部屋に戻りたかった。なのに、身体の動きは正反対。
今がリアルでなかった。
身体も心もふわふわしていて、なのに締め付けられているような気がする。
お酒に酔った昨日の感覚に近いような遠いような、そんな感じだった。
ただ…昨日よりも明らかに熱かった。悪い熱病にやられたように火照っている。
「お帰り、桜子」
そんな中にもリアルがある。背中の母親の声は、桜子の心臓を一瞬止めてしまった。
見つからないように、と祈っていたのだが…時間が時間、台所にいたのだろう。
ぎしぎしと廊下が鳴った。母親の気配が近づいてきた。桜子の鼓動もまた激しくなる。
「…た、ただいま」
桜子は、玄関に座ったままで振り向きもせず、消え入りそうな声であいさつを返す。
…お母さんの顔なんて…絶対に見れないよ…
顔を見られないような事をしたつもりはなかった。
だが…それは所詮理屈でしかない。
もし目をあわせたら、一瞬ですべてがばれてしまいそうだったから、顔を上げるわけにはいかなかった。
血液が、上半身に集中するのがよくわかる。顔も首も指先まで、真っ赤になりそうだ。
「昨日の事で話があるの。お父さんも居間で待っているわ。いらっしゃい」
廊下が鳴きやみ、お母さんの静かすぎる声が頭上に響く。当然、家を勝手に抜け出た事だろう。
だが、今の桜子にはお怒りを聞く余裕なんてなかった。
ゆっくりと立ち上がると、居間ではなく、自分の部屋の方向へ身体は動いていた。
だが、階段を上がろうとする桜子の左腕を、お母さんはがっちりつかむ。
「ちょっと。お父さん、本気で怒ってるのよ。お母さんも怒ってる」
「…ごめんなさい。身体、だるいから…」
入院したての時のような小さい声。顔は下に向けたまま、絶対に上げようとはしない。
うづきちゃんとなにかあったのかしら、と不安に思ったお母さん。けど、それはそれ。
「すぐに終わるわよ。だから、いらっしゃい」
つかんだ腕を強引に引っ張ろうとした。強引なのは桜子も同じだった。
振り払うようにして、階段を駆け登る。
そして、自分の部屋に飛び込むと、しっかりと施錠した。
思わぬ桜子の抵抗に、動揺するのも無理もなく、はっと気がついた時には遅すぎた。
「桜子っ!」
桜子は扉に寄りかかって、下の様子を気にしている。
お母さんの声は大きくて、明らかに怒っている声。
だが、二階までは上がっては来なかった。
大きく息をはく。安堵のため息、というには、感情のまぜこぜになりすぎたため息。
ストールを脱ぎ、ぽんと床に落とした。そして、ベッドに飛び込んだ。弾んで埋まる。
綺麗に、ぴん、と張ってあったシーツを握り、指先のしわに、心臓の音が大きくなる。
とくん、とくん、とくん、とくん、とくん、とくん、とくん、とくん、とくん、とくん…
頬の熱から逃げるように仰向けになり、右手をおでこに置いた。熱い鼓動がある。
真っ暗な部屋。だが、天井は相変わらず白い。彼の部屋の天井は…何色?
…りゅうのすけ君…
まぶたに浮かぶ彼の顔。耳には彼の声が残り、唇が彼を静かに思い出していた。
八十八駅での待ち合わせ。八十八海岸という場所でのデート。
久々の海にはしゃいで、身体を冷やして、彼に肩を抱かれて。
そして…今朝から決めていた事を口にした。
「私、りゅうのすけ君の家に行ってみたい」
同棲の事、気になっていたから。うづきの助言があったから。
それに…純粋に彼の家を見たかったから。もっと彼の事を知りたかった。
だから、わがままを言った。
そして、大きな彼の家へ。大きな彼の部屋へ。おしゃべりをして、それから…
かーっと頭に血が集中するのがよくわかった。鼓動が早くなり、呼吸も落ち着かない。
だから横を向き、まくらを強く抱きかかえて、その柔らかさの中に顔を埋めた。
自分の体温を自分で感じる。そして、それがまた、身体を火照らせた。
…なんで、あんな事…したのかな…
時々、雑誌に書いてあった。真っ赤になってそれを読んでは、遠い事だと思っていた。
だから…いきなりの事に混乱してしまった。今だって、理解なんてできはしない。
だが、その事を後悔しているわけでもなく、嫌悪しているわけでもなかった。
最初は恐かった。ぎらぎらしていた彼の目。桜子に触れる彼の手と指の力強さ。
すべてに男を感じてしまったから。少し前の優しさが、なんとなくうそに思えてしまった。
それに…自分の本当の部分にまで触れられそうで…嫌われるのが本当に恐かった。
そして、何度も何度も拒んだ。準備もできていないのに、心を見られたくなかった。
けど…触れ合う部分が増すたびに、彼の優しさが直に伝わってきたから…
彼を自分の中に受け入れた。
呼吸も、体温も、指先も、髪の毛も、シーツのしわも、全部がひとつになった瞬間。
自分の中に彼を感じて…その感覚はとても素敵だった。
全身が温かくて、心が温かくて、心地好くて、気持ち良くて…ちょっと、痛かったけど。
いままで知らなかった感情が胸にあふれて、満たされて、とても素敵で…
刹那の重なりであったとしても、彼をひとつになれた事は素直に、本当に嬉しかった。
自分の中の、彼に対する素直な気持ちも、少しは伝わってくれていたらいいのだが。
ただ、そう感じたのが自分だけだとしたら…そう考えては、さみしさを覚える。
デートしてくれたのはお遊びかな。あんな事をしたのはムードに流されただけかな…
まくらを抱きしめたまま、左右対称に寝返り。薄目に、壁づたいに視線を上げていく。
雲はないがお月様もない夜空。青白いお星様が、たくさんきらきらと輝いている。
…でも、あのペンダント…していてくれたんだよ。
裏庭で彼に渡したペンダント。それを身につけていてくれた。ずっとしていてくれた。
デートにあわせてしてきただけかもしれない。けど、それでも…持っていてくれた。
だから、彼を信じた。同棲をしていないという事も、彼を受け入れる時も。
…やっぱり、ちゃんと告げに行こう。このまま終わりたく、ないもん。
なんだかんだと、あやふやなまま終わってしまったデート。もう、後悔はしたくない。
中途半端のままでいるよりも、せめて自分の気持ちだけは伝えておきたい。
そして、彼の優しさを独り占めしたい。あの声と、あの笑顔と…ずっといっしょにいたい。
同棲している女の子は本当にいなかった。恋人だって…たぶんいないと信じたい。
…明日、もう一度りゅうのすけ君の家へ行こう。そして…今の気持ちをきちんと言おう。
桜子はむくりと身体を起こした。まくらを置き、ベッドから下り、明かりをつけた。
部屋に色がついた。床に広がったストールの赤に、桜子はなぜか照れてしまった。

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