やがて断片達は全て水滴へと還元された。重い響きで建物を包んでいた律
動も今は停止し、ただ時折開いた屋根から吹き込む風だけが幽かな音を立て
る。

「月が来るまで、もう少しお待ちくださいね。」
  繋がった天を見上げて娘は言った。
「月……?」
  応えはなかった。そして、その沈黙を保ったまま時が流れる。時折上から
の夜風が娘の短い髪を揺らす。

  そして、水滴は矩形の泉の中で眠り、静かに時を待っていた。



  不意に、その時は訪れた。
  天井に開いた通路から白い光が差し込み、この塔の様な一室が明るく照ら
し出される。
  頭上を見ると、中途半端な形の月があった。

「月は自ら光るのではなく、太陽からの光を受けて輝いて、夜の間届かない
太陽の光で私達を照らします。」
  あたかも時間が今再び動いたかの様に、娘が応える。

  水が、月の光に反響した。
  小波一つ無いはずの表面が、まるでちらちらと燃える様に無数の明滅を返
し始める。
  まるで、夜明けの光を受けて輝く海の波の様に。

「そして水は、天に還ってその月の光と同化するのです。」


  矩形の泉の表面から一つ、光の粒子が立ち昇る。
  それは頼りなげに明滅しながら、深い海底を漂う微生物の様にゆっくりと
天へ上ってゆく。

  一つ、また一つと、透明な水となった断片達は今度は気体へと生まれ代わ
り、燐光を発しながら音も無く空気に浮かび上がる。無数の光の粒子となっ
て、娘の開いた通路をくぐって。

  私は娘を見た。娘は先程の姿勢のまま、天井を、上ってゆく水滴を見上げ
ている。その幽かな光は硝子の天井に届く頃には夜の闇に溶け込んで見えな
くなってしまう。

  月の光に照らされたその後ろ姿からは、娘の表情を窺い知ることはできな
かった。

  数多の言葉にできなかった想い、届かなかいで行き場を無くした言葉。そ
の迷い子達は「機械」の律動と娘の優しい白い指に導かれて、ようやく行き
場を見つけて、光を得た空気となって月へと還ってゆく。

  いつか、届くことを夢に見ながら。

  私は、言葉を発することもできずに、還る想いとそれを見届ける娘を、た
だ見ていることしかできなかった。


  その瞬間、止まったはずの「機械」から一つの水滴が生まれて落ちた。
  無音の塔の中に、水滴が泉に落ちる音が反響する。

  その音に振り返った娘は、操作板の傍らから小さな銀色のナイフを取り出
した。そして泉の淵にかがむと、新たな水滴が生んだ波紋の中心を丁寧に銀
のナイフで切り取ってゆく。

「はい。」
  あっけにとられる私に、娘はそっと球形に切り取った水滴を手渡した。
「これは、本日の工場見学のおみやげです。」

  私の水滴は、手に受けると心地よい冷たさがあり、ほんの幽かな輝きを返
していた。


         *


  そして今、私はさらさらと音を立てて流れる川に沿って、相変わらず切符
の半券だけを手に、街の方へと歩いている。川音を運ぶ夜風の涼しさが心地
よい。

  考えた末に、結局私は水滴をあの建物の入り口に置いていくことにした。
  短い黒髪の娘が一人で断片たちを導きを天に還す、あの「工場」の入り口
に。

  球体に切り取られた水滴は、その幽かな光でほのかに建物を照らし、時折
闇に溶け出す様に小さな燐光を一粒ずつ、月へと降らせていた。


  正面に、色とりどりの街の灯りが見えてくる。その街を、完全な円ではな
い中途半端な月が照らしている。太陽からの光を反響させたその灯りは、街
の色彩に比べて如何にも弱々しく見える。

  夜風に乗って、街の喧騒がここまで聞こえてくる。おそらく、演奏会を終
えた友人も今ごろは懐かしい人達と酒でも飲んでいることだろう。

  その中に私がいないことをどう想っているかはわからないが。

  私の耳に届く街の賑わいは絶えることなく、夜が更けてなお強くなってゆ
く。

  そして、また多くの想いと言葉が生まれる。


  私は、その喧騒の中にいるであろう友人に向けて、唯一発することのでき
た言葉を送った。

「……おかえり。」

  この静かに夜を照らす月の光が、君に届くことを願いながら。


                                                              Fin.



ノートブックに戻る