「ごめん、怒った?」
黙りこんだままの僕を気遣ってか、彼女は笑いを止めて、僕の顔を覗きこむ。
そして、ふと思いついたように、首に掛かったままの月時計を手にして、もう一度月
を灯す。
ベンチの真中、僕と彼女の間の空間に生まれる、小さな夜空。
「ねえ、ちょっと私の目を見て。……私の瞳の中に、満月は幾つある?」
言われる通り、僕は彼女の、綺麗な黒の瞳を見つめる。ひとつの瞳に、ひとつの月。
両の瞳で、ふたつ。
「月は、ふたりの想いから構成されていると仮定します。すると、一つの月は博士とお
ばあちゃんのものと推定されます。」
ここで、『鳥』は、一瞬迷ったように言葉を切って、そして、少し早口で、僕に問い
を掛けた。
「……では、もう一つの月は、誰と誰の想いから構成されているか、解を導きなさい。」
「え……?」
僕が、彼女の問いをまだ解釈しきれない隙に、彼女はすっと立って、雪の残る中庭を
街の方へと駆け出し始めた。
「ねえ、早くおばあちゃんに、月時計見せに行こう!」
僕は慌てて、残ったコーヒーを飲み干して、彼女の後に続く。
彼女の胸で揺れる、ちいさな天球に灯った、ふたつでひとつの月を、導にして。
気がつくと、僕達を包む大きな天球の満月は、いつの間にか、随分高くに昇っていた。
あまねく照らし拡散して淡くなった、満月の月明かり、彼女が駆ける舗道に灯る、街
灯達の明かり、そして、彼女の月時計の明かり。
その光の中を、彼女を追って駆けながら、僕は心の内で、そっと祈る。
博士、僕、『鳥』、『鳥』の祖母。そんな一夜限りの雪のひとひら達。
その短い生命の想いを、願わくば、あの天空の満月が、ずっと憶えているように。
そして願わくば、朝を迎えて僕達が消えた後も、十年、百年が過ぎても、僕達の灯し
た満月が、ずっと光を灯し続けるように。
今宵の満月の下、舗道を駆けながら、そう、僕は祈る。
Fin.
挿入詞:『百年の満月』/zabadak アルバム『桜』より
作詞:小峰 公子 作曲:吉良 知彦
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