二月の丘

                何処からか笛の音が聞こえてくる。 開けたこの丘の上からはその吹き手の姿は何処にも見当たらない。 だがその澄んだ音色だけは、灰色の空を駆け抜ける子供の風達に運ば れてこの丘に小さくも響き渡る。 金属製の笛特有の高い和音の連なり。寂しく、澄み渡って、やがて この二月の丘にも春を呼ぶように。

重く冷たい空気の流れに、娘は無意識にマフラーを首元にかき寄せ た。奇妙に大気が重く感じられる。丘を覆う毛布の様に低く薄暗く立 ち込めた空のせい、それは確かなことなのだが、ただそれだけではな い様に思えてならない。 まるで静かな何かが降り注いでくる様な、そんな重さ。

あるいはこんな場所のせいだろうか、とも思ってみる。ここからの 眺望はなだらかな斜面と薄い色の草原が続き、その先の広大な常緑樹 の森へと至っている。草原にまばらに立ち並ぶ古い列石は、かつてこ こが神の種族達が住んでいた証しであるとされ、そしてその先に眠る 森には常若の国の入り口があると言われている。

夏になれば、高く鮮やかに色付いた空のもとに広がる神の国の名残 を残す美しい眺望を求めて多くの人達が来ることだろう。だが天がそ の大地を染める光も、その生物を暖める熱をも失ったこの季節に、わ ざわざ凍てつく風の通り道であるこの丘を訪れる者はほとんど無に等 しい。 その他に誰もいない丘で、娘は目の前に広がる風景を眺めていた。 森の方へと降りて行った青年をただ待ちながら。

あたかも停止しているかの様な時の流れ。その緩やかな息づきの証 しを示すかの様に、相変わらず笛の音が聞こえてくる。

(いったい誰が吹いているんだろう。)

冷たい風に視線と想いをぼんやりと漂わせてみる。だがそれらしき 人影はどこにも見つからず、娘はそっとため息を漏らす。娘の生命の 持つ暖かみが一瞬この冷たい大気に真白く溶けだし、すぐに拡散して 消えてゆく。

(今私が探したのは、本当に笛吹き?)

自分自身が発したその問いに答えることができず、娘は避けるよう に再び深緑の海の様に広がる森へと目を移した。

(どうしてわかってくれなかったんだろう。)

娘は二月のこの丘の風景が好きだった。 新緑の若々しい色などとうにあせた半ば枯れ乱れた冬の草原に、北 風を受けながらも疎らに立つ幾つもの列石。その巨大な石一つ一つが 幾百もの冬に揺らぐことなく、凍てつく風とそれよりも過酷な「年月」 という風の爪跡をその身に刻みながら、今も静かに暗い天空を向いて 聳えている。

そして、その列石達に守られる様にして広がる太古の常緑樹の森。 ここからでもその齢を経た樹々の太い枝が垣間見える。その枝と、緑 というよりむしろ黒といった方がふさわしい葉とが織り成すアーチ。 その奥に永遠の住む常若の国はこんこんと眠り続ける。

夏の彩りのもとには存在しえないこの寒々しい荒涼な光景の中には、 確かに聖なる物が宿っていた。そしてそれはその腕の元に人間を受け 入れることのない、ただ僅かに窺うことのみ許される様な、そんな神 聖さ。

娘は、そんな二月の丘の光景をただ二人で眺めたかった。 それなのに、青年は娘を残して森の方へと降りて行ってしまった。 ただ見ているよりは歩いてみたいと言って。

(どうしてわかってくれなかったんだろう。)

人の想いは変わってゆくもの。ゆっくりと、でも確実に。 そしてやがてすれ違ってゆくものなのだろうか。 娘は瞳を閉じて、金属の笛が奏でる音楽にそっと耳を澄ませた。

何処となく、重く垂れこめた空気の中に透明さが混じってきた気が する。それとともに肌をさす針の様な冷気がますます強くなり、娘は 思わず自分の体を抱きしめた。

(まだ帰ってこない。)

自然と、青年が入っていった黒い森の方に目が向く。何も考えずに じっと見つめているとその太古の森の腕の中に吸い込まれてしまいそ うな気分がする。この荒涼として神聖な森を見れば、この森が常若の 国に続いているという伝え話も迷信だとは全く思えなくなる。

常若の国。それは神話の中の、永遠が宿る国。時間という流れから 切り離されたそこは常に光に満ちあふれて、死も老いも争いも存在し ない。神話の中でも多くの英雄達が常若の国の乙女に誘われて永遠の 楽園で憩うている。

(あの森の奥に常若の国がある。)

ひとたび永遠の国の住人となれば、二度と時間の流れる世界に戻る ことはできないという。戻っても、一度大地に足を付ければたちまち 蓄積された時間の奔流に飲み込まれてその体は朽ち果ててしまう。 永遠という名の牢獄。それ故、常若の国は黄泉と例えられる事もあ るという。

(あの森の奥に……。)

不意に、娘は言い様のない不安に包まれた。青年が娘のもとに二度 と帰ってこず、常若の国に去ってしまうという不安。あの太古の森の 門を乙女とともに潜りぬけて。 振り払う様に、娘は強く首を振った。

(あの人が去っていくわけがない。これからもずっと。)

森の中に娘が人影を見たのはその瞬間だった。 それは青年ではなく、純白の衣を纏った女性だった。 丘から遠く離れているはずなのに、その姿は細部まではっきりと捉 えることができる。流れる乳の様にたなびく真白い衣、その衣と対称 を成す様に黒く輝く長い髪。そして同じ漆黒の輝きを秘めた瞳。

その黒い水晶の様な瞳が、丘に立つ娘へとまっすぐに向けられる。 光の滴を湛えて、永遠という悲しみに満ちた瞳を。 その汚れのない美しさに吸い込まれる様に、娘の意識がゆっくりと 遠退いてゆく。だがその意識の中で、娘は確かに女性の悲しみの瞳の 中の真実に気付いていた。

(あれは、私?)

「だめだよ。」

急に耳に入った幼い声に、娘は吸い込まれゆく意識を取り戻した。 何処から来たのか、娘の目の前に一人の少年が立っていた。見た事 がない奇妙な色彩と紋様で飾られた服を着た、幼い少年。その小さな 手には錫製の笛が握られている。

「だめだよ、あそこへいっちゃあ。」

澄んだ瞳で娘を見上げながら少年が繰り返す。その言葉の意味をよ うやく理解し、娘は困惑に包まれた。

(常若の国へ?私が?)

「もうちょっとで二人ともいっちゃうとこだったよ。」

少年がほっと息をつく。不思議とそれは凍てつく空気に白く漂う事 がない。

「二人……?」 「あんたがいっちゃたら、あんたのその想いがそのまま男も引き込ん でたよ。きっと。」

不思議な笑みを浮かべながら、少年は応えた。

「想いが降るのを助けていたんだ。」

先程からずっと何処からともなく聞こえてきていた笛の音色。それ に対する少年の答えはこうであった。

「この季節になると、森を抜けて想いがこの丘まで流れてくるんだ。 あの国からね。ほら、もうすぐ降ってくるよ。」

再び少年は錫製の笛をその小さな口に加えると、ゆっくり奏で始め た。低く丘を覆う灰色の空を貫いて響くように高く。森を抜けて常若 の国まで届くように強く。そして想いを慰めるように静かに。

やがて、娘の立つこの丘に、天空から音も無く想いが降り始めた。

それは真白い蝶の様に二月の丘に舞い降りてきた。灰色に重く澄ん だ大気の中をふわり、ふわりと形を変えながら。

あの森の女性の涙から生まれ出た、女性の衣の白さそのままの色と 輝きをした永遠の想い。 一つ、また一つと想いが大地に辿り着く。そして時の奔流に触れた 永遠の想いは、積もることなく土へと還ってゆく。

白い蝶の群れの中の一匹が、娘の手のひらへと舞い降りた。血の流 れる娘の暖かい手に止まった瞬間に溶け落ちる想い。その冷たさから 伝わる永遠の檻の中の綺麗な悲しみ。

神の時代からこの空に積もっていった、幾百幾千の想い達。ずっと 変わる事のないそれは、この二月の丘にやむことなく後から後から降 ってくる。森に、列石に、大地に、見上げる娘の顔に。純白の輝きと 悲しみを湛えて。

後から、後へと。

「ごめんよ、ずっと待たせちゃって。」 気がつくと、笛を吹く不思議な少年の代わりに、目の前に青年が立 っていた。あの高く響く錫の笛の音色は、もう何処からも響いてはこ ない。

娘は強く青年にしがみついた。 「ごめん、ごめんね……。」 ほっとした胸のうちから泉の様に涙が湧き出てくる。その娘の急な 感情の訴えに戸惑いながらも、そっと震える肩を抱きとめてやる青年。 冷えた身体がほんのりと暖かさを取り戻してゆく。

変わらない想いなんていらない。 でも、今この瞬間だけは。 雪は相変わらず、二人の立つこの丘に静かに降り続いていた。

Fin.



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