無数の妖かしの炎が、宗久をさらに奥へと導いてゆく。霞の中にある
いは溶け、あるいは輝きつつ。その群れに少し間を置いて、少年は後を
追ってゆく。半ば、夢の中にいる様な心地で。

先程から風が吹く度に立てる、絹の様な旋律が、歩くにつれて大きく なってくる。さらさらと、何かが舞う様な、絶間ない旋律。この暁のま どろみの様な春霞に溶けこむ旋律。

それとは別に、少年はもう一つの音を微かに、しかし確かに聞き取っ ていた。何処か懐かしい音。それは歩くにつれ、一つの曲、そして歌声 へと移ろいゆく。 かあさんが歌った、懐かしい、椎葉の春の歌へと。

春になればぞ うぐいす鳥も 山を見たてて 身をふける 鬼火達の動きが止まった。一つ、一つと、あたかも何かを守り、仕え る様に集まり、ぼんやりとした明りで闇夜に光をもたらす。

霞にぼやけるその光の中心に、一本の桜の大樹があった。 空気が枝を揺らす度に、絹ずれの様な音を奏でて、夜空に散る、真白 い桜の花びら。それは、先程までの雪よりもなお真白く、椎葉の夜に消 えてゆく。

鬼火達が、その桜に、幻の様な輝きを与える。自らの命を捧げ、妖か しの身となっても守り続けたその桜に。自らの炎を燃やし続けて。そし て、その輝きに包まれて、桜は僅かな間、華麗に咲き、やがて次の世代 へとその身を散らしてゆく。

歌声が聞こえる。その桜の大樹の根元に、一人の女性が立って、歌を 歌っていた。桜と同じ、清楚で、はかなげな立ち姿。歌うは、追われた 身でただ春を待つ、椎葉の、春の歌。

「やっと、おまえのもとに、かえってこれた……。」 宗久は、桜の前の女性のもとに歩み寄ってゆく。その一歩毎に、その 姿は昔の姿へと変わってゆく。五十年前の、平家追討を命じられこの地 に初めて来た時の、凛々しい若武者の姿へと。

そうして、二人とも溶けこむ様に、桜の大樹へと消えた。

少年は、茫然とその光景に見入っていた。時とともに、桜はその身を 風に散らせてゆく。それに合わせ、無数の鬼火が、一つ、また一つと姿 を消してゆく。あたかも、炎が燃えつきていくかの如く、あるいは、そ の役目を終えたかの如く。 辺りは次第にもとの冬の夜へと戻ってゆき、そして、女性の歌声だけ が、ただ少年の心の内にのみ残った。

春の霞は 見るまいものよ 見れば目の毒 見ぬがよい 目を覚ますと、少年は自分の小屋の前で寝そべっていた。朝の光が、 積もった雪に反射してまぶしく顔に当たる。

驚いて少年が起き上がると、からんと軽い音を立てて、朱塗りの笛が 転がり落ちた。そして、体についていたらしき、数片の桜の花びら。

少年は笛を口に当て、脳裏に刻みこまれた歌声を思い出しつつ、ゆっ くりと吹きはじめた。鬼火達に守られ、鶴富姫から、世代を経て伝えら れた、椎葉の里の、春の旋律を。

春を待つ山里に、高く澄んだ笛の音が響きわたる……。

Fin. (『椎葉の春節』/Song by ZABADAK/椎葉村の民謡より)



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