翌朝、早くに娘は目を覚ました。昨日よりも体力が戻っており、背中の傷ももう痛み
は取れていた。

「もう起きたの?だったら、これから海に行かないかい?今から、魚を獲りに行くとこ
なんだ。」
 先に起きていた少年が、声を掛ける。娘は、その申し出を受けることにした。



 昨日とは異なり、まだ、夜が明けきっていないというのに、空気はさほど冷たさを含
んでいなかった。この季節には珍しい、南からの風が、きまぐれに吹き、冬の精霊達を
ひととき遠ざけていた。

 砂浜に出ると、波が、朝の時を穏やかに刻んでいた。遠く、近く、遠く、近く。波を
受けて、波打ち際の雪が、少しずつ、溶けて海に還ってゆく。

 声が、あいかわらず娘に呼び掛けていた。それは、南の風が吹くたびに、強く娘の胸
に届いた。

「ほら、もう日が昇るよ。見ててごらん」
 少年が、小舟を波打ち際に引き出しながら言った。

 東の水平線から、一日の初めの光が、静かに、ゆっくりと、海を照らしてゆく。あた
かも、その腕に、幼子を優しく包み込むかの様に。

 やがて、穏やかな光を受けて、海がちらちらと輝きを返しだす。その輝きは、さざ波
にたゆたい、無数の光の三角となって、遠く、遠く、彼方の水平線へと、溢れてゆく。

「じっちゃんは、『光の鳥だ。』って言ってたんだ。」
 少年が、輝きに見入る娘に言った。
(光の鳥……。)
 確かに、その無数のトライアングルは、鳥の群れの様に映った。さざ波に合わせ、そ
の輝く翼をはばたかせ、水平線の彼方へと向かう、光の鳥の群れの様に。

『いこう、かえろう、南へ、暖かい南の国へ。』

 その瞬間、娘は全てを思い出した。
 自分が何者で、何をしていたのか、すべきなのか。そして、ずっと昔、自分を助けて
くれた、若き詩人のことも。

 少年は、娘の変化を、息を呑んで見つめていた。
 朝の陽射しを受けて、娘の背中から生えてゆく、白く、まぶしい翼。白銀の長い髪を
なびかせ、光を散らし、確かめる様に翼を広げる娘は、物語に聞く、天空の使いそのも
のだった。
 翼を広げるにつれ、娘の胸の内に、再び空を飛ぶことの喜びの想い、そして遺伝子の
奥底に記憶された、南への望郷の想いが湧きあがってくる。

 娘は、ただ茫然と見ている少年の手をとって、明るい声で言った。

「飛ぼう!」

 娘の細い足が砂浜を蹴る。そして翼をはためかせ、二人は空へ舞い上がった。



 みるみるうちに、少年の生きてきた島が小さくなる。白く雪の残る、いつもの海岸、
岩場、そして村と小さな港。空に生きる者達だけが、見ることのできる島の光景。白い
翼が、さらに高くはばたく。そして光を受けて、彼方に映る大地。少年の知らぬ、今知
り始めた、新しい世界。

「すごい、すごいよ……。」
 目の前に開かれた、果てしない世界を前に、少年は、ただこうつぶやいた。それを受
けて、娘が軽やかな笑いを返す。




 やがて、娘はもとの砂浜に降り立った。少年がずっと生きてきた、この砂浜に。

「……行っちゃうのか?」
 別れの予兆を感じ取り、少年は尋ねた。

「ごめんなさい……。」
 娘は、寂しげに答えた。銀色の髪が、微かになびく。
「だったら、僕も連れていってくれよ!今みたいに、一緒に飛べるんでしょ!」
「……あなたと暮らしたおじいさまも、昔、同じことを言ったの……。」

「えっ……?」
 少年が、驚いて聞きなおす。
「でも、だめなの。今の私は、本当の姿ではないし、空に生きる者と、大地に生きる者
とは、ともに暮らすことはできない……。」

 娘は、懐かしい、悲しい追憶に、顔をうつむけ、わずかに身を震わせた。
「たとえ互いが望んでも……。そして、私たちは、自ら人の姿はとれないの。そして、
人の姿の時の記憶も……。」 娘が手で顔を覆う。
「そんな、そんなのって……ひどすぎるよ!」
 少年が、泣きながら叫ぶ。
「本当にごめんなさい、許して……。でも、もう行かなくちゃ。仲間たちも呼んでいる
の。」
 娘は、小屋を最後に見た。そして、一言つぶやいた。

「あの人は、もう亡くなったのですね……。」

 そして、娘はもとの姿に戻り、天に舞い上がった。昨日の雪の様に白く、そして銀色
に輝く鳥に戻って。
 遺伝子に記憶された、懐かしい、知らない場所へと。




 またも独りになった少年は、そのままいつもの小屋に戻った。娘が残した、一枚の白
い羽を手に。

 老いた詩人を亡くした時と同じ空虚感が、少年を包んでいた。そういえば、あの時も
こんな感じだったけか、と思いかえしてみる。自然に、あのリュートに手が伸びた。
 ゆっくりと、弦をつまびいてみる。じっちゃんが愛し、娘が知っていたあの歌を。


  どんな遠くても 迷わない強さ
  私もいつかは 胸に抱きしめたい
  どんな遠くても 風の着く場所へ
  ただ旅すること 全てはその中に


 歌を口ずさむ少年の心に、少しずつ、ある想いが育ちつつあった。
  それは、見知らぬ世界へと駆り立てる、鳥達と同じ想い。

 『白い翼』を追って旅を続け、そしてこの小島で、ただ独りで満足そうに死んでいっ
た、詩人の生涯。一つの場所に縛られず、太古からの記憶と欲求に駆り立てられ、海を
渡る鳥達。そして、空から見た、見知らぬ世界。

  リュートを握る手に、懐かしい老いた詩人の想いが静かに伝わってくる。
  少年の決意を、暖かく励ますかのように。

『空に生きる者と、大地に生きる者が、ともに暮らすことはできない。』と、娘は言っ
た。ならばせめて、じっちゃんと同じく、新しい世界への憧れに駆り立てられ、大地に
縛られずに生きてみよう。老いて旅を終えるその日まで、空を舞う鳥の様に生きてみよ
う。

 そうすれば、いつか、僕は『白い翼』に、また出会えるかもしれない。

 傷ついて弱々しくほほ笑み、嬉しそうにともに空を飛んだ、あの銀の娘に。

                                                                          Fin.

                              挿入詞:『休まない翼』/zabadak
                                       (作詞:小峰公子・作曲:吉良友彦)より



ノートブックに戻る