2.プラモデルメーカーの立地条件
どんな企業でも必ず企業活動に都合のよい条件があります。特に製造業の場合、まず製品を作るときに騒音を発生したり、有害なガスを発生したりする場合は、住宅地に立地することはできません。また、製品を作る原料を輸送するのに、例えば港が近いとか、鉄道の駅に近い、原料メーカーに近いなどの条件があります。できた製品を流通させるためにもやはり輸送が必要なため、消費地に近い方が望ましいといったこともあります。その他、ある伝統的な技術を基に新しい産業ができあがることが多いため、製造業にはたいてい発祥の地というものがあります。 私が、この研究室のトップの話題に所在地を取り上げたのには、理由があります。日本ホビーKKが起業した場所が東京港区という現在では都会の真ん中であるような場所にあったからです。現在、生き残っている多くのプラモデルメーカーは静岡県にあります。もともと、港に近く、製材業が盛んだったため、木を使った模型メーカーが多く存在したのが起こりなのだそうです。田宮、フジミ、長谷川、青島、今井などがこれに該当します。 とりあえず、六本木に簡単に行かれない方のために、現在の風景を撮影してきましたので、アルバムをご覧いただき、私とイメージを合わせてください。 この付近は昔は武家屋敷やお寺があった場所で、明治以降も貴族などの金持ちの屋敷があったところです。結構坂が多く、参考の地図にも行会坂、落合坂などの名称があるのにお気づきのことと思います。実際、現在残っている坂は昔のままではなく、記念碑が立っているだけですが。また、この場所からそんなに遠くないところに、永坂という場所があり、そばで有名な永坂更級の本店があるというように、商業地ではありませんでした。それは戦後も続いていたようで、広大な敷地をもった住宅が多く存在しました。昭和30年代、桜田通りに都電が通っていたころも、同じ様な状況だったことが私の見た地図で見て取れます。もう一つつけ加えておくならば、この付近には外国の大使館がかなり多く存在します。したがって、どう考えてもプラモデルメーカーがこの辺の旧来からの土地柄に立脚したものではないように思われます。 さて、それでは日本ホビーKKはなぜこの場所にあったのでしょうか。どんな、立地条件があったのでしょうか。かなり想像力を働かせてみました。まず、麻布小学校が近いこと。これは、メーカー(工場)の立地条件には関係ありませんが私が想像するところでは、日本ホビーKKの前身は子供相手のおもちゃを扱うお店だったのではないでしょうか。昭和35年頃から40年頃の麻布小の出身者なら、きっと真実をご存知だと思います。 次に外国の大使館が多いこと。これは、外国の大使館員の子供がプラモデルを持ち込み、それに目を付けるきっかけとなりえたと思われます。それから、六本木の防衛庁が近いこと。これは、日本ホビーKKの戦車に自衛隊のアイテムが多いことのひとつの理由と考えられます。現在では、田宮の模型が米軍の教材になっているように、以前は日本ホビーKKの戦車が陸上自衛隊の教材になっていたのです。「日本ホビーの戦車は正確なので自衛隊の教材に使われています。」という広告がありました。残念ながらその広告は残っていないのですが、M41の模型を持った自衛隊員の写真と共に載っていたその広告を子供のころの記憶としてはっきりと覚えています。旧ソ連大使館も近く、スターリン戦車の図面や写真が入手できた可能性もあったかと思われます。 |