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■ 宝永六年(1709)三月二十一日 |
Date: 2013-03-21(Thu) |
現存東大寺大仏殿落慶供養
元禄四年(1691)二月三十日には大仏の修理が完成したが、公慶上人に
はそれ以上に困難な事業が待ち受けていた。大仏殿の再建である。天平の創建
はもちろん国家財政を傾けて行われ、建久の再建もまた朝廷と幕府の全面的な
支援のもとで漸く行われたものであり、一般の勧進だけでは限界が予想された。
大仏再建に積極的でなかった幕府であったため、困難が予想されたが、上人の
相談を受けた将軍徳川綱吉の護持僧隆光は将軍の母桂昌院との接触を勧めた。
元禄八年十月八日、上人と面会した桂昌院はその熱意に感動、即座に金五百両
を喜捨、その後も積極的な支援を続けることになる。そして桂昌院が動いたこ
ついに幕府も全面的な支援を開始するに至った。ここに幕府が五年間造営費用
を援助するだけでなく諸大名にも費用は割り当てられ、工事は奈良町奉行の大
岡忠高(忠相の父)の監督のもとに続けられることとなった。
費用の面では大幅に進展した再建事業もその用材の確保は困難を極め、上人
は自ら九州に赴いて用材を確保、日向から半年がかりで多くの人々の協力のも
とで漸く運ぶなどした。当然ながら上人は天平以来の規模での再建を期待した
が、用材・費用の面から結局縮小を余儀なくされ、高さと奥行きはほぼ創建時
のままではあるが、正面の大きさが十一間(約86m)から七間(約57m)とおよ
そ2/3に縮小しての再建となってしまった。また、建築様式も創建時の姿で
はなく、鎌倉時代に再建された大仏様と呼ばれる様式に準じている。
そしてこの日漸く完成した大仏殿の落慶供養が四月八日まで行われた。しか
し、上人自身は過労のためこの盛儀を見ることなく四年前に示寂されていた。
(続史愚抄)
■ 天平宝字元年(天平勝宝九歳、757)三月二十日 |
Date: 2013-03-20 (Wed) |
天皇の寝殿に「天下太平」の文字が生じる。
この日、孝謙天皇の寝殿の承塵に「天下太平」という文字が現れた。承塵は
屋根裏からの塵を防ぐため部屋の上部に張った板や布で、現在の天井板に相当
する。当時の建築にはまだ天井がなかったためである。
この前年五月二日に聖武上皇が崩御されたのに続き、この年一月六日には前
左大臣橘諸兄が薨じていた。もう既に仲麻呂の行動を押さえる者はどこにもい
なかった。「天平」の元号のもとになった亀の甲羅の上に現れた文字もそうだ
が、今回の事件についてもあまりにも見え透いた作為の跡が歴然としている。
もちろんこの時点ではこんなことをするのは藤原仲麻呂以外に考えられないが、
恐らくおつきの女官などを買収したか、もともとそういう人物を送り込んでい
たか、ということになる。そんな彼の企みのまま、三月二十九日には聖武天皇
によって立てられた皇太子道祖(ふなと)王が廃され、四月四日には仲麻呂の
推挙によって大炊(おおい)王(後の淳仁天皇)が代わって皇太子となる。彼
は事実上仲麻呂の娘婿であり、それ以降は仲麻呂の邸で起居していたほどであ
ったため、彼にとっては完全な傀儡に過ぎなかった。仲麻呂は更に五月二十日
に紫微内相(しびないしょう)に任じられる。これは紫微中台(しびちゅうだ
い)の長官であり、この時事実上皇権を手中にしていた光明皇太后の家政機関
の長である。彼は叔母である光明皇太后の権威を背景に専権をふるって行く。
そしてこの年七月の橘奈良麻呂の変を未遂のうちに鎮圧した後、出現した文字
を記念した「天平宝字」への改元が行われるのであった。
(続日本紀)
■ 天智六年(667)三月十九日 |
Date: 2013-03-19 (Tue) |
近江大津京遷都。
白村江(はくすきのえ)の戦いに大敗した日本は今度は開闢以来初めて中華
帝国による侵略の恐怖に直面することになる。この危機に天智政権は九州や西
日本に大野城(おおののき)、基肄城(きいのき)、水城(みずき)、屋島城
(やしまのき)、高安城(たかやすのき)など百済(くだら)の技術者を動員
した本土防衛のための城塞群を次々と築き上げる。神籠石(こうごいし)と呼
ばれる遺跡もこの時に築かれたものと考えられている。しかし天智は結局は外
港である難波から近い大和を捨て、この日ついに近江大津宮に遷都された。け
れど人々は遷都を願わず、政府の批判をする者が多く、また批判的な童謡が流
行した。それどころか日々夜々に各地に失火があった。恐らく遷都に批判的な
勢力の放火によるものであろう。この時の「日本書紀」の記録は具体例を欠く
が、後に聖武天皇が紫香楽(しがらき)に遷都された時の「続日本紀」の記録
は周囲の山々で連日不審火があったこと、また役所などでも失火があったこと
を記しており、この時も恐らく同じような状況だったのではないか。
大化改新で畿内の範囲が定められたように、古代人にとって畿内(うちつく
に)は特別の意味をもっていた。畿内の外への遷都を悲しむ当時の人々の心を
代表するような額田王(ぬかたのおおきみ)の歌が「万葉集」に残されている。
三輪山を 然(しか)も隠すか 雲だにも
心あらなも 隠さふべしや (巻一・18)
人々の批判をよそに強引な施策を続ける天智政権に人心がなびく訳もなく、
これらのことはやがて壬申の乱で近江方の敗北をもたらすことになる。
(日本書紀)
■ 天智八年(669)三月十八日 |
Date: 2013-03-18 (Mon) |
耽羅王に五穀の種を賜う。
耽羅(たんら)は韓国の済州島にあった国。百済(くだら)の文周王二年
(476)から百済に朝貢・服属していたと伝えられる。しかし、その百済の
滅亡により新羅(しらぎ)に服属を余儀なくされた。日本との関係では斉明七
年(661)に帰国途中の遣唐使がこの島に漂着したことによりこれに便乗し
て王子阿波伎(あわき)らを筑前朝倉の斉明天皇の行宮に遣わしたことが最初
の記事として伝えられている。滅亡した百済に代わってその宗主国を自認して
いた日本との接近を意図したものであろうか。その後、天智四年、五年、六年、
と使いを遣わしており、新羅との関係はあまり歓迎していなかったためにその
対抗上日本の支援を期待したのかも知れない。この年も三月十一日に王子久麻
伎(くまぎ)らを派遣、朝貢した。
この日、耽羅王に対して五穀の種が下賜された。王子久麻伎らの使節に対す
るものであり、恐らく耽羅王から依頼があったのであろう。少なくとも済州島
には通常考えられているのとは逆の流れで日本から農業が伝えられたことにな
る。そうして耽羅王子たちはこの五穀を手に帰国した。たった八日の滞在なの
で恐らく大津の都に来たのではなく、大宰府で対応がされたものであろう。後
の「高麗史」の伝える耽羅建国の伝説によると、地中から出現した三神人が浜
辺に流れ着いた箱を開くと青衣の三人の処女と諸駒、犢(こうし)、そして五
穀の種が入っていた。その処女は日本の国王が耽羅の神子に配偶者として賜っ
たものであったという。この時に日本から五穀の種をもらったことがその後も
伝説として長く伝えられたものであろうか。
(日本書紀)
■ 延暦二十五年(806)三月十七日 |
Date: 2013-03-17 (Sun) |
早良親王事件関係者の名誉を回復し桓武天皇崩御。
三月十五日頃からいよいよ危篤状態となられた桓武天皇は十六日には氷上川
継(ひかみのかわつぐ)の乱で流罪とされた川継らの官位をもとに戻したのに
続き、この日には藤原種継暗殺事件に連坐した者たちを「今思ふ所あり、存亡
を論ぜず(生死にかかわらず)」もとの官位に戻す、という詔を出された。
その対象となったのは「万葉集」の最終的な編者と目される大伴家持とその
嫡子永主、真っ二つになった遣唐船の船尾に乗って漂流、藤原清河の遺児喜娘
などとともに九死に一生を得て帰還した大伴継人などであった。
彼らは桓武天皇の寵臣藤原種継暗殺事件の犯人とされ、殺されたり流罪とさ
れたり、或いは家持のように既に亡くなって一ヶ月も経っていたのに罪人とさ
れたりした者たちであった。そもそもこの事件の首謀者とされた早良親王は皇
太子の位を奪われて流されることになったが、冤罪を訴えて食を断ち、恨みを
含んで亡くなった。しかしその後皇太子安殿(あて)親王(平城天皇)の病気
の原因を占ったところこの早良親王の怨霊のため、ということが判明し、その
後桓武天皇は終生この早良親王の怨霊に悩まされることになった。既に早良親
王自身は名誉を回復されて崇道天皇の諡号も贈られたが、連坐した者はそのま
まであった。この日のいまわの際になってのこの措置で漸く早良親王事件の清
算を成し遂げたことになる。
この後更に桓武天皇は毎年二月と八月に崇道天皇のため七日間に亘って諸国
国分寺で金剛般若経を読経するよう命じられた。そうして間もなく息を引き取
られたという。宝算七十歳。
(日本後紀)
■ 天平十九年(747)三月十六日 |
Date: 2013-03-16 (Sat) |
大養徳国を大倭国に戻す。
天平九年十二月二十七日に大倭国(やまとのくに、奈良県)は大養徳国と改
称された。これは当時流行した伝染病を天の怒りととらえ、これに対して天子
が徳を養うことにより天の怒りを鎮めるという意図を有したと考えられている。
しかし、大養徳という名称は国郡郷名の原則が二字の好字を用いる、となって
いるのに反して三字であり、敢えてそのような名称を選んだ理由が明記されて
いない以上真意は不明とするしかない。
この日再び大養徳国から大倭国に改称されたことは、これによってかつて橘
諸兄(たちばなのもろえ)が主導して遷都した恭仁宮を大養徳恭仁大宮(やま
とのくにのおおみや)と称したその大養徳の否定であり、恐らく背後には藤原
仲麻呂の暗躍があったものと思われる。
その後、天平宝字二年頃に大倭国は今度は大和国と再び文字だけ改称され、
それ以降固定するようになる。
全国の国は橘諸兄政権下で財政緊縮のためか一時的に抑制が図られ、例えば
養老二年(718)に越前国から分置された能登国は天平十三年(741)に
今度は越中国に併合された。ちょうど大伴家持が越中守として赴任していたの
はこの時期になり、家持は能登の各地まで足を運んでいることが万葉集により
知られる。しかし、諸兄が失脚して藤原仲麻呂の政権下となると国の数は再び
増加し、先の能登の例では天平宝字元年(757)に再び分置される。国の数
の固定はだいたいこの時期に行われたもので、それ以降は弘仁十四年(823)
に越前から分割・設置された加賀を例外として明治まで固定する。
(続日本紀)
■ 天平宝字五年(761)三月十五日 |
Date: 2013-03-15 (Fri) |
帰化人百八十八人に賜姓。
この日百済(くだら)系帰化人百三十一人、高句麗(こうくり)系帰化人二
十九人、新羅(しらぎ)系帰化人二十人、大陸系帰化人八人の合計百八十八人
に賜姓が行われた。与えられた姓は百済王族に与えられた百済を除き、中山、
楊津(やなぎつ)、朝日、豊原、清住(きよすみ)、狩高(かりたか)、雲梯
(うなで)などおおむね居住していた地名によったらしい。
これより先、天平宝字元年四月四日に出された詔の中で、高麗・百済・新羅
などから渡来してきた人々が日本に帰化し日本の姓を望むのであればすべて許
可する、という項目があり、これに応じて続々と出された賜姓の記事の中でも
最大のものがこの日の人々。これを含めて記録されるだけでも五十余氏、合計
二千人ほどの帰化人に賜姓が行われた。これは百済や高句麗の滅亡、その後の
唐と新羅の戦争による旧百済地域に駐屯していた唐の人々、そして新羅国内の
政変などを逃れた人など多数の半島や大陸の人たちが日本へ亡命して来たこと、
そしてその後の統一新羅による半島支配の確立に伴い帰国する望みを絶たれた
彼らはもはや日本を永住の地とする以外に住むべき所はなかった。日本側とし
ても彼らの多くは技術を持たない一般民衆であり渡来当初は食料などを支給し
て養っていたもののそういった特別扱いを永遠に続けることは出来ず、一般民
と同じ扱いとすると共に、彼らを新天地としての東国に配置してその開拓に当
たらせる、ということを新たに方針にするようになった。特別な技能を持って
いなくても彼らの多くは農業技術者としては進んだ技術を有しており、開発の
遅れていた東国では特に貴重な開拓の原動力となっていった。
(続日本紀)
■ 貞観三年(862)三月十四日 |
Date: 2013-03-14 (Thu) |
東大寺大仏修理成り開眼供養。
斉衡二年(855)に地震の影響からか、そのお首が折れてしまい、転落・
大破した東大寺の大仏の修理もこの日漸く完成した。賀陽親王、時康親王(後
の光孝天皇)、本康親王、在原行平(ありわらのゆきひら、在原業平の兄)、
伴善男(とものよしお、もとの大伴氏)などの人々が参列する中、盛大な開眼
供養の行事が行われた。
大仏殿の柱は錦で飾られ、唐・高麗(こま、ここでは渤海か)・林邑(りん
ゆう、カンボジア)の音楽が奏でられ、また大仏殿の一層目の部分には特設舞
台が設けられて天人天女の舞が披露された。そうして厳かに文章博士(もんじ
ょうはかせ)菅原是善(すがわらのこれよし、道真の父)によって願文が捧げ
られた。その願文は欽明天皇の代に仏教が伝えられて以来二百年でこの大仏が
造営され、百年でこの事故はあったものの広く人々の寄付を集めて今回の修理
が成ったこと、この功徳によって塵区(汚れた現世)を出て智岸(浄土)に迎
えて欲しい、といったことが述べられた。
この時、ほとんど新造に近い、と言われながらも何とか七年かけて独力で修
理を成し遂げたのであったが、三百年余後の平家によって焼かれた修理の時に
は既に日本には鋳造技術が失われており、宋の技術導入により漸く完成する。
鋳造技術の衰退は皇朝十二銭と言われる銭貨が和同開珎から後になるほど逆に
品質が低下することに如実に現れている。少なくともこの段階では技術はまだ
地に落ちていなかったのだが、一方願文では鎮護国家よりも個人の救済が願わ
れており、仏教に対する意識・受容の変化がうかがわれる。
(三代実録)
■ 宝亀四年(773)三月十三日 |
Date: 2013-03-13 (Wed) |
祈雨のため黒毛馬を丹生川上神社に奉納。
丹生川上(にうかわかみ)神社は古来有名な祈雨・止雨の神として知られる。
雨を乞う時には黒毛の馬を、そして止雨を祈るときには白毛の馬を奉納した。
現在丹生川上神社は吉野郡川上村、東吉野村、そして下市町にそれぞれ上社、
中社、下社があるがこのうちどれがこの時馬を奉納された神社かは不明。これ
らはいずれも日本一の多雨で知られる大台ヶ原の水を受ける位置にあるため、
古来から雨の神として知られ、特に「丹生川上雨師神社」とも称されたりした。
祈雨・止雨は農業にとって死活問題であったため、あらゆる方法でこれを祈
ることが古代国家の重要な役割であった。天武天皇の時代には毎年のように風
神である竜田神社と共に水神としての広瀬神社に参拝が行われており、おそら
くこの頃は広瀬神社が祈雨・止雨の対象であったと考えられる。
丹生川上神社が初めて祈雨・止雨の対象として登場するのは天平宝字七年五
月二十八日の条からであり、恐らく雨について霊験あらたか、という話が浸透
していった結果であろう。平安時代に国家祭祀を受けた神社を列挙する「延喜
式」神名帳では吉野郡に「丹生川上神社 名神大、月次、新嘗」となっている。
これは本来は現在のような上・中・下の三社ではなく一社であったことを示す。
この国家祭祀に預かったいずれかの神社が馬を奉納された、ということになる。
また、主要祭祀のうち相嘗(あいなめ)祭の対象とされていないが、この祭祀
は起源が非常に古いけれども平安朝には既に衰退していたと見られており、そ
の対象ではないことからは朝廷から重要視されるようになったのが少し遅れる
ことを示すものであろう。
(続日本紀)
■ 建久六年(1195)三月十二日 |
Date: 2013-03-12 (Tue) |
東大寺大仏殿落慶供養。
この日朝から雨で午後からは雨足も激しくなり、また地震まで起きるという
最悪の天候であったが予定通り大仏殿の落慶供養が挙行された。風雨について
も天神地祇までもが降臨されてこの盛儀に立ち会ったためと理解された。未明
から和田義盛、梶原景時らが数万の兵士を率いて厳重に警護する中、日の出の
後頼朝も大仏殿に入り、いよいよ落慶供養が行われた。
この時、集まった群衆と僧侶たちも中に入ろうとして警護をしていた武士た
ちにとどめられ、また彼らに梶原景時が無礼を働いたということで暴動が起こ
りそうになったがあわてて頼朝が遣わした小山朝光が諄々と今日の盛儀は頼朝
公のおかげであり、と理を説くことによって漸く沈静化された。大仏の開眼供
養の時と異なり、一般庶民の参列は許されなかったのであり、これは関白九条
兼実(くじょうかねざね)の要請であったことが知られる。またここでも騒ぎ
の元となっているのは源義経を讒言によって陥れたとされる梶原景時である。
後白河法皇こそ既にこの三年前に崩じられていたが、朝幕の貴顕が列席する中、
こうして中世の民衆を熱狂させた東大寺大仏殿の落慶供養は無事終了した。
その翌日、頼朝は大仏再建を技術面で支えた宋人の陳和卿(ちんなけい)に
面会を求めたが和卿は合戦によって多くの人命を奪った罪業の深い人とは会い
たくない、と拒否。が、逆にその言葉に感激した頼朝は奥州征伐に使った甲冑
・馬具を金銀と共に馬に乗せて贈った。しかし和卿は金銀と武具・馬具を東大
寺に寄進し、馬はそのまま頼朝に送り返したという。
(吾妻鏡)
■ 敏達四年(575)三月十一日 |
Date: 2013-03-11 (Mon) |
任那復興の詔。
この日百済(くだら)より朝貢があった。しかしその朝貢物は例年より多か
った。これは恐らく次第に勢力を強めつつあった新羅(しらぎ)に対して日本
の積極的な関与を期待してのものであろう。
ここに敏達(びだつ)天皇は先に欽明朝において新羅が占拠したまま失われ
てしまっている任那(みまな)の復興を求め、皇子(長男の押坂彦人大兄皇子
(おしさかのひこひとのおおえのみこ)か)と大臣(おおおみ)の蘇我馬子に
対して「任那のことに、な懶懈(おこた)りそ(任那復興の努力を決して怠っ
てはならない)」との詔を発された。
「日本書紀」は任那に日本府があったことを伝えるが、現在「日本」という国
号は推古朝以前に遡ることはないと考えられており、少なくとも「日本府」が
なかったことは確実であるが、「やまとのみこともちのつかさ」という日本語
名称の機関に「日本府」の文字を宛てたとすれば矛盾はなくなる。但し、いず
れにしても日本の領国化していたのではなく、あくまで任那地域にあった群小
諸国が連合し、その盟主として日本を仰いだのであり、定期的な進調(貢納物
の献上)は別にして国家としての独立性は高かった。また、後に「大宰(みこ
ともちのつかさ)」或いは総領などと呼ばれる行政機関らしきものはは国内に
も後の大宰府だけでなく吉備や伊予などにも置かれていた。恐らくはこれらの
地域の首長も同様に大和朝廷に対してもともとはゆるやかな同盟を結んでいた
ものと見られる。特に吉備地方については大和の王権に匹敵するほどの巨大古
墳を残しており、強い自主性を有したことが遺跡面からも推測される。
(日本書紀)
■ 天長六年(829)三月十日 |
Date: 2013-03-10 (Sun) |
神託により飛鳥坐神社を遷座。
この日神託によって大和国高市郡賀美郷の甘南備(かんなび)山にあった飛
鳥社を同じ郷内の鳥形山に遷座申し上げた。
明日香村の飛鳥坐(あすかにいます)神社の遷座の記録であり、鳥形山が現
在飛鳥坐神社の鎮座される山であるにしても甘南備山については不明。或いは
甘橿丘か。またどのような経緯でどんな神託があったのかも伺い知ることは出
来ない。恐らくそれらの内容も含めて正史である「日本後紀」には詳細に記録
されていたのであろうが、残念ながら「日本後紀」は戦国時代に散逸してしま
い現在は僅か1/4ほどが伝わるのみであるため、その記録も失われてしまっ
た。失われた部分には平安京遷都や坂上田村麻呂の蝦夷(えみし)征討に関す
る部分なども含まれており、これらは僅かに平安末期に正史を抄録した「日本
紀略」によってそのような事実があったことが知られるのみである。
延長五年(927)に完成した行政細則集の「延喜式」の当時の国家祭祀に
預かる神社を列記した部分(神名帳)には大和国高市郡の二番目に
飛鳥坐神社四座 並名神大、月次、相嘗、新嘗
と記載されており、全国の殊に霊験あらたかな神を祭る名神祭など、国家の重
要祭祀にはいずれも対象とされる神社であったことが知られる。ここに記載の
ある神社を特に「式内社」と呼び、その多くは有史以前からの信仰を集めた神
社である。その内容は天平時代にほぼ現在の形にまとめられたと考えられてお
り、その後に追加されたものを含めて宮中から五畿七道まで全部を合計すると
二千八百六十一社(うち大和は二百六社)、その大半は今も祀られ続けている。
(日本紀略)
■ 天平勝宝四年(752)閏三月九日 |
Date: 2013-03-09 (Sat) |
遣唐使に節刀を賜い、大使以下に叙位。
この日、孝謙天皇は遣唐使の副使以上を内裏に召し、詔して節刀を賜い、あ
わせて叙位を行った。
この時の遣唐大使は藤原清河(ふじわらのきよかわ)、副使は当初大伴古麻
呂(おおとものこまろ)だけであったが後にと吉備真備(きびのまきび)が追
加で任命されている。真備は二度目の渡唐となる。ほかに留学生(るがくしょ
う)として藤原刷雄(よしお、藤原仲麻呂の子)もこの場にいた。
この時賜った節刀は天皇の大権の一部を委譲することを象徴するものであり、
遣唐使や将軍などに与えられた。軍事や外交を天皇に代わって現地で実施する
とともにその部下に対する処罰などをも認められていた。持節将軍や持節大使
と言った場合はこの節刀を有していることを示す。
この節刀を受け取った以上は即刻(家にも立ち寄らず)出発する必要があり、
彼らは退出したその足で遣唐船の待つ難波の港に向かったものと思われる。
周知の通り、この時の遣唐使が最も有名な使節であり、鑑真大和上の招聘、
新羅との間の朝賀の席次争い、大使清河ともと留学生阿倍仲麻呂の遭難と唐で
の客死、といった多くの逸話を残すことになる。なお、光明皇太后と清河の出
発を前にしての歌が「万葉集」に残されている。
大船(おほぶね)に ま梶(かぢ)しじ貫(ぬ)き この我子(あご)を
唐国(からくに)へ遣(や)る 斎(いは)へ神たち (光明皇太后)
春日野(かすがの)に 斎(いつ)く三諸(みもろ)の 梅の花
栄えてあり待て 帰り来るまで (藤原清河) (巻十九・4240-4241)
(続日本紀)
■ 元禄五年(1692)三月八日 |
Date: 2013-03-08 (Fri) |
東大寺大仏元禄再建開眼供養成る。
戦国時代、永禄十年(1567)に松永弾正久秀の兵火により焼失した東大
寺の大仏は戦乱の中でも直ちに再建に着手され、炎上の翌年から大和の土豪、
山田道安が私財をなげうって尽力、元亀三年(1572)にはともかくも一応
の修理を終えた。ただ、これはあくまでも応急修理のようなもので、その尊顔
は銅板をもってあてたものであった。そしてこの後も痛んだ箇所の修理は断続
的に行われていた。
江戸時代に入り東大寺で出家された公慶上人は露座の大仏を見て慨然とし、
生涯をその再建に捧げることを誓った。貞享元年(1684)には幕府の許可
を得ていよいよ大仏再建の勧進を開始、重源上人の旧例を慕い、その鉦鼓を持
ち出して全国を回り、勧進を行った。幕府の協力は消極的なものであったが難
波の豪商北国屋治衛門をはじめ多くの人々の協力を得て元禄三年(1690)
四月八日には仏頭が完成、さらに胎内の柱の取り替えなどを行い、この日つい
に悲願の大仏再建開眼供養が行われた。導師は東大寺別当済深法親王、宮中か
らも勅使として蔵人頭(くろうどのとう)勧修寺輔長(かじゅうじすけなが)
が派遣され、舞楽が奏でられる中、天平の開眼に使われた筆が文治の再建に続
き三度用いられ、ここに現存する東大寺大仏が完成した。そしてこの日から三
十日に亘り万僧供養の法要が繰り広げられ、あわせて東大寺に残る聖武天皇以
来の寺宝が一般にも公開された。この間参加した僧侶は一万二千名に達し、一
般の参列者の数は実に二十万五千三百人にのぼり、大坂より生駒山を越え、闇
峠を過ぎて参拝する人々が連日列をなしていたという。
(続史愚抄)
■ 雄略六年(462)三月七日 |
Date: 2013-03-07 (Thu) |
養蚕奨励、少子部賜姓。
この日雄略天皇は皇后に親しく養蚕を行わせることで天下に養蚕を奨励しよ
うと思われた。そこで側近の栖軽(すがる)という者に蚕(こ)を集めること
を命じたところ、勘違いした栖軽は子、つまり子供たちを集めて献上した。そ
こで天皇は笑って栖軽にその子供たちの養育を命じ、あわせて少子部(ちいさ
こべ)という氏を賜った。
少子部は本来天皇側近の童子たちを養育する氏族。その少子部氏の創氏説話。
栖軽は「日本霊異記」の冒頭の説話では雷の鳴る日、皇后と休んでおられた雄
略天皇の寝室に迷い込み、天皇から(テレ隠しに)雷を捕らえることが出来る
か、と問われたためかしこまって「雷神よ、天皇がお召しだ」と呼ばわりなが
ら御所のあった泊瀬(はせ)から軽の諸越(もろこし、畝傍山東南)にまで走
り回ったところ、豊浦寺(とゆらでら、蘇我稲目の建立した寺、現在の広厳寺、
但しその建立はこれよりずっと後)と飯岡(いいおか、不詳)の間に雷神が落
ちていた。そこでそれを捕らえて天皇にお目にかけた。光り輝く雷神を見て天
皇は恐れて幣帛を捧げ、落ちていたところにお返しした。それで後にそこを電
(いかづち)の岡と呼ぶようになった。後、栖軽が亡くなった後その場所に墓
を建てて「電を捕らえた栖軽の墓」と書いたところ、雷神が怒りその碑を蹴り
割ったが、裂け目に挟まれて再び捕らえられてしまった。そこで天皇は「生き
ていた時も死んでからも電を捕らえた栖軽の墓」と改めて碑を建てたという。
なお、栖軽は「日本霊異記」の用字であり「日本書紀」では●贏(●は虫偏
に果)と記す。古代には発音が同じなら用字にはこだわらなかった。
(日本書紀)