私のプロフィール

 

氏  名:中 安 正 議
    
(なかやすまさのり と読み ます。読めませんよねー)

山梨県甲府市在住。

昭和34年、北海道夕張市に生まれる。
      
(でも、育ちは関西でんねん)

略  歴:西宮市立香枦園小学校卒業
     西宮市立浜脇中学校卒業
     兵庫県立西宮北高校卒業
     京都府立大学農学部林学科 卒業
       四手井綱英せんせの「山と森の人々」を読んで林学科を選びました。その選択、
      まちがっていなかった……?
       卒業論文は「岐阜県下のカラマツの幹形について」…だったと思う。

     京都府立大学大学院農学研究科林学専攻(森林経理学)修士課程修了
       学位論文は「林分構造図の作成とそれに基づく幹と樹冠の量及びその垂直的配
       分の生育段階による変化について」…だったと思う。よく覚えていない?

     山梨県職員林業職に採用され、県有林の財産管理用務、境界管理用務、
    林業改良指導員(特用林産担当)、林道用務、県有林の造林・収穫用務,林構特産等に携わり、
      現在、森林環境部県有林課に所属している。
     

   なぜ京都から、えんもゆかりもない山梨へ来たのでしょう?
     ……それは山へ行く交通費をうかすためでした。

資  格:自動車普通免許
     測量士補
     林業改良指導員
     林業専門技術員(特用林産)
     森林インストラクター
      教員免許(高校1級農業、高校2級理科、中学1級理科、中学1級職業)
     アマチュア無線技士第4級(コールサインは、7K1XHHです。朝夕通勤途中は
                  433.00MHzで待機しています。)
     C級スポーツ指導員(第2種山岳指導員)
     全日本スキー連盟公認クロスカントリースキー指導員
     全日本スキー連盟公認計算委員
     マイクロコンピュータ利用者認定3級(日本マイコンクラブ)

スポーツ:ノルディックスキー・クロスカントリー競技
      
昭和58年、京都府スキー選手権大会 成年1部15km 2位入賞 (大山)
       昭和58年、全日本学生スキー選手権大会4部30km 7位入賞  (妙高)
       昭和58年、全日本スキー選手権大会出場 30km (札幌)
        (出場しただけ、ビリから7番目だったことだけ覚えている。)
       昭和62年、国民体育大会冬季大会出場 成年2部15km 42位 (白馬)
       現在、山梨県スキー連盟競技本部常任理事、競技力向上部長、主任強化コーチ、ノルディック委員会委員長

     陸上競技
       学生時代は中長距離をやっていました。体型が太目だったのでよく投擲選手と
      間違えられました。
       1500m自己ベスト  4分25秒7
       5000m自己ベスト 16分45秒0
       マラソン自己ベスト  3時間03分52秒(長い距離は苦手なのです)
       富士登山競走(山頂コース)自己ベスト 3時間24分05秒 103位
       平成元年、
富士吉田市よりクロス・ド・モンブラン大会(シャモニー・モンブラン市)派遣

     山岳競技
       昭和51年、全国高校総合体育大会(長野) 山岳競技 出場
       昭和51年、国民体育大会秋季大会(佐賀) 山岳競技少年男子 出場
       昭和63年、国民体育大会秋季大会(京都) 山岳競技成年男子 出場 総合11位

趣 味:山登り
       現在、富士吉田市を拠点とする
御坂山岳会に所属しています。入会して13年
      たつのに、まだ若手といわれています。現在新入会員募集中。県外の方でもけっ
      こうです。ご連絡ください。
    写真撮影
       山岳写真、高山植物写真が多いです。今年からキノコ写真にレパートリーを
      広げようと思っています。愛用のカメラは、中型ではマミヤ645スーパー、
      35ミリではミノルタ303siです(ミノルタα7000はついに壊れました)。
    ピアノ
       クラシックならドビュッシー、ラベル、サティ、ジャズならキース・ジャレット
      チック・コリア、ハービー・ハンコック、ビル・エバンスのファンです。ソロピアノ
      が好きなんです。私もちょっとだけ弾きます。
    プロレス
       実は私、金曜の夜8時にプロレス中継が放送されていた頃からの、熱狂的な
      プロレスファンです。今でも新日本プロレスや全日本プロレスが甲府へ来ると、
      リングサイドで観戦しています。プロレスって、私、芸術だと思うのです。受け身
      の美学です。

私とパソコンとの出会い

 私がはじめてパソコンと出会ったのは、大学4年生のときでした。それは、カシオパソコンPB−100というポケットコンピュータでした。当時はまだBASIC全盛の時代、マニュアルを見ながらBASICでスロットゲームのプログラムを入力してみました。それがなんとちゃんと動くではありませんか。それからというもの、BASICにどっぷりとのめり込みました。森林計測用のプログラムをけっこう作って、現地で使って自慢していたものでした。今考えればほんとうに幼稚なプログラムでしたが。
 そして1年がたち、就職するあてもなかったので、研究生でいるよりはましと思い、大学院に進学しました。6月のある日、研究室に突然デスクトップ型のコンピュータがはいりました。買ったのはいいのですが、誰も使えません。とりあえず一番暇な私が使うことになりました。しかし、そのコンピュータ、巷ではやっていたFMタウンやPC−88とちょっと違うのです。ソードとかいうメーカーのオフコンだったのです。BASICは使えるのですが、M−BASICとかいうソードが開発したBASICで、はっきり言って使いにくかったです。かな漢字は使えず、みんな英語で表現しました。グラフィック言語はいちいちチャンネルを新たにオープンしないと動きません。隣の研究室にあった富士通のパソコンがどれほど羨ましく思えたことでしょう。しかし、そうは言いながら自分で図表のプログラムを作り、自分で統計計算のプログラムを作り、なんとか論文を仕上げました。でも、今考えればみーんな表計算ソフトに関数として組み込まれていたのですね。
 さて、山梨県職員となり、吉田林務事務所に赴任したとき一番嬉しかったのは、職場の片隅にパソコン、そう、私が夢にまで使ってみたかったPC−98があったことです。ソードのオフコンと比べれば、とっても使いやすくできていました。早朝や夜に夢中になってトラバース測量のプログラムをBASICで作りました。当時は勤務時間中にパソコンをいじっていると遊んでいると思われて気が引けたものでした。そのN88―BASICで作ったアプリケーションを「信玄」と名づけ、8インチフロッピー2枚にコピーして各所に配布しました。自分でもなかなかよくできたソフトであると自負しています。あー、売って儲けりゃよかった。信じられないけどこのソフト、14年たった今でも現役で動いているのですよ。
 そのうち、MS−DOSが現われ、WINDOWS3.1とかが現れだした頃、私は完全に落ちこぼれました。初代98NOTEも買いましたが、一太郎Ver3とNinja3proをちょっと使って、すぐ飽きてしまいました。その間、COBOLをちょっとかじってみましたが、ものになりませんでした。
 そして、WINDOWS95の登場です。これ、使ってみると、昔BASICで悩んだ世代にとってはとても簡単で便利なんですよね。プログラミングなんて全く必要なし、表計算ソフトでほとんどの数値計算とグラフはできてしまう、周辺機器との接続もプラグアンドプレイでいとも簡単、そのうえ、おまけソフトもいっぱいついてくる。さっそく、私は生涯2台目のパソコン、PC―9821Nb7を買ってしまったのが4年前でした。

 ところで、私がかつて没頭したBASICって、いったい何だったのでしょう…

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