■ネコかる物語


そもそものきっかけといえば、1984年のことです。
GONTITIの「脇役であるとも知らずに」というアルバムのレコーディングのために、弦楽四重奏を集めることになったのですが、これが斎藤ネコカルテット(以下ネコかる)の誕生と言えるでしょう。

当時のメンバーは、斎藤ネコ(1st.Violin)、グレート栄田(2nd.Violin)、山田雄司(Viola)、溝口肇(Cello)でした。このメンバーで3年程は、いろいろなアーティストのレコーディングやライブに参加していました。

1986年、溝口肇がソロアルバム「ハーフインチデザート」を発表。ピースライトのCFとあいまって、ソロ活動が多忙になり、ネコかるを卒業することになってゆくのでした。
溝口肇のネコかるでの最後の演奏となったのが、1987年5月、新宿ピットインでの山下洋輔5DAYSでした。フリープレイのパートで、煙草をくわえて「ピースライト」のCF曲(当時溝口が出演、作曲、演奏していました)を奏でたのですが、これがとてもうけ、そのままネコかるを卒業していったのです。

そこで、ネコかるでは新しいチェリストを探し始めました。第一候補に上がったのが現在のチェリスト、藤森亮一でした。KILLING TIMEの「SKIP」、橋本一子の「ムードミュージック」などのレコーディングに参加 。力量、人柄ともに、この人をおいてネコかるのチェリストはいない!、と斎藤、栄田、山田の意見が一致。 藤森亮一のネコかる参加へとつながってゆきます。

そんな時期に、ロマニシャスカフェのオーナー大木雄高氏から「ネコかるでライブやってみない?」とのお誘いを頂き、気軽な気持ちでOKした第1回めのライブが1987年9月5日、前出のロマニシャスカフェでゲストにバンドネオンの池田光夫さんを迎えて意気込み十分、演奏不十分で、今から考えるとたいへん真面目にとりおこなわれました。このグループのライブ活動がその後10年間も続くとは、メンバー4人のうちで1人として考えていなかったでしょう。そのライブに関しては別記するとして話をすすめましょう。

当初は、ミヨー、フランセ、イベール等のフランス近代物、橋本一子さん、近藤達朗さん、斎藤ネコ等のレコーディングで使用した譜面、そしてゲストコーナーといった内容だったのですが、回を重ねるうちにもっとオリジナル作品が欲しくなり、山下洋輔氏や矢野顕子さん、谷山浩子さんといった割と近い存在の人々に大胆にも結構気軽に作品を委嘱してしまったのでした。
1989年、当時出演していた六本木「ハートランド」で出演者のライブ録音によるオムニバスCDを作ることになり、ネコかるのオリジナル曲演奏としては初録音となる「カラペ(作曲:斎藤毅)」が収録されました。

1990年、オリジナル曲もだいぶ増えてきたので、CDでも作ってみるか、ということになり、当時はまだ珍しかった自主制作のレコーディングに取り組むことになります。
まず、最初にやったのはホール探しでした。評判のよさそうなホールにかたっぱしから電話して、スケジュールの合わないところと、愛想の悪いところを却下して決まったのが秋川キララホールと喜多方プラザでした。メンバーのスケジュールと照らし合わせてもこの2箇所で録音し、残りをポリドールのスタジオで録る、要するに録音場所は3箇所ということでスケジュールは決まりました。

最初のレコーディングは秋川キララホールでした。一日しかホールがおさえられなかったので前のりで近所の山田旅館というところに泊り込みました。大広間を借りてそこのステージでリハーサルさせてもらいました。従業員のみなさんが観客になってくれたので、結局ライブになってしまいました。
翌日、ネコかるのメンバーはなんと9時にホールに入りました。今では考えられませんがこの頃はまだ若かったんだなあとつくづく思います。そして食事休憩以外はひたすら録音していました。夜の9時までレコーディングは続き、終わったころには全員話もできないほど疲れきっていました。この秋川のセッションはマイク2本だけの、DAT一発録りでした。そうそう、エンジニアは北川照明さん。この当時彼はお酒がのめませんでした。

次なるセッションはポリドールのスタジオ(今のポリグラムスタジオ)でした。ネコかるが今のメンバーになって最初のレコーディングを行ったスタジオです。北川さんとの出会いもここでした。ここではマルチマイクで当時出たばかりのデジタルの器材で録音しました。 つづく・・・・・・(日本には各地に未完のものが沢山あります.....?)


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