ときめきメモリアルショートストーリー

神様の魔法


目次

第一話『少女の願い』
第二話『伝説の樹の下にて』
第三話『コアラのマーチ』
第四話『決勝戦の日』
第五話『見晴の決意』
最終話『君が通り過ぎた後に』
エピローグ
あとがき

 

第一話『少女の願い』

 きらめき市のほぼ中央、きらめき中央公園を抜けて小高い丘を上ったところ に小さな神社がある。この神社には“天綺羅銘輝命”(あまのきらめきのみこ と、天煌命と表記することもあり。因みにきらめき市という地名はこの神の名 に因んでつけられたと言われている。)という神様が祭られていて、かつてき らめき市がきらめき村と呼ばれていたころから村の氏神として人々の信仰を集 めていた。  この神様はきらめき市出身の女流作家・如月未緒が同市の市史編纂委員会か らの依頼を受けて執筆した『きらめき市の民話と伝承』という著書の中でも度 々登場し、この地で生きた人々を時には助け、時には暖かく見守ってきた姿が、 未緒独特の繊細な筆致でいきいきと描きだされている。  そして現在でもこの神社にお参りして、神様の声が心に語りかけてきたとい う経験を持つ人が何人もいるらしい。  この神様にまつわる伝説で最も有名なのが、きらめき高校の校庭の古木に関 する悲恋の娘の伝説であろう(SS『伝説の樹〜遠い日の昔語り〜』参照)。 それもあってかこの神様には色々な御利益が言われているのだが、その中でも 特に恋に悩む若者たちの参拝が多いという。  そして……、その日もまた神社の境内には恋に悩む一人の少女が一心に祈る 姿があった。少女は名をミハルといった。 「神様、どうか私の願いを叶えて下さい。」  ミハルは社の前に跪き悲壮な面持ちで祈り続けていた。彼女の胸には決して 結ばれる筈のない相手、だが彼女の心に忘れ難い印象を残した一人の少年の面 影が宿っていた。  どのくらいの時間、そうしていただろう。祈り続ける彼女の心に直接語りか けるようにどこからか声が聞こえてきた。 『その願い叶えて進ぜよう。』  その声を聞いたミハルは最初、少々驚いたように周りをキョロキョロと見回 していた。だが、周りに誰もいないことが判ると漸くそれが神様の声であった と気がついた。 「ほ、ほんとうですか?」  それまでやや不安気だったミハルの顔がパッと明るく輝いた。だが問い返す 声音にはまだ“信じられない”という響きが含まれている。  『本当だとも。だがこれには条件がある。』 「条件??」  ミハルは不安な面持ちで社を見上げた。勿論、自分の願いが無理な願いであ ることは判っている。例えどんな条件がつけられたとしても、それは覚悟の上 であった。 「どんな条件なのですか?」  声にやや不安をにじませながらもミハルは神様に問いかけた。その問いに答 えて神様は言葉を続けた。 『まず第一にいかにわしが神様でも人の心をどうにかすることは出来ぬ。わし に出来るのはお前に機会を与えてやることだけじゃ。後のことがどうなるかは お前次第じゃ。』 「はい。」 『そしてもう一つ、わしの力の有効期限は三年間、そしてここからが重要なと ころなのだが、お前は決して相手に名前を知られてはならない、もし知られて しまえば三年を待たずしてこの魔法は解けてしまう。』 「名前を知られてはならないのですか……。」 『うむ。この技は大変難しい魔法なのじゃ。当然、強い副作用を伴う。それが 今上げた条件じゃ。』 「はい。」 『この条件を守った上でお前がもし伝説の樹に選ばれたならば、その時こそ、 本当におまえの願いが叶うだろう。だがもし選ばれなければその時点でもはや 永久にお前の願いを叶えることは出来なくなる。遠い昔、おまえと同じように 人間になりたいと願った人魚があった。だがその見返りとして彼女は声を失っ た。そしてとうとう愛しい男と結ばれることが出来ず、海の泡と消えたのだ。 おまえも伝説の樹に選ばれたならば、愛しい相手と幸せな一生を送ることが出 来るだろう。だがもし選ばれなかったならば、おまえは空気に溶けて消えてし まうことになる。それでもお前はそれを願うのか?』  それは彼女にとって大変過酷な条件であった。相手に名前を知られず、その 上で伝説の樹に選ばれなくてはならない。そしてそれをなし得なかった時には 空気に溶けて消えてしまうという……。だが彼女の答えは一つしかなかった。 それ程までに彼女の想いは強かったのだ。 「・・・判りました。例えどんなに条件が厳しくても私は……。」 『お前が心に思う少年に想いを寄せる者はお前だけではないだろう。おまえは 手枷足枷をつけた状態で、彼女等が少年と戯れる姿を見ることになるかも知れ ない。お前が条件をクリアして、彼と結ばれる可能性は千に一つ、いや万に一 つもないかも知れない。辛い思いをすることになるぞ』 「どんな辛いことも覚悟は出来てます。」 『そうか。そこまで決心が固いならもはや何も言うまい。』  神様はそういうと不思議な呪文を唱え始めた。すると天からきらきらと輝く 光の粒が降ってきて彼女の体をつつみこんだ。光の中で彼女の姿が徐々に変化 していく。そして光が消えた時、そこには長い緑の髪を持ち、愛らしい顔立ち をした一人の人間の少女の姿があった。 「これが・・・私・・・・。」  ミハルは自分の手を目の前に持ってきてしげしげと眺めた。首を回して自分 の体を点検するように見回している。 「神様、ありがとうございます。この御恩は一生忘れません。」 『いやいや、礼を言うのはまだ早い。おまえの願いを本当に叶えることが出来 るかどうかはこれからじゃ。』 「はい。」 『この近所に館林という子供のない夫婦がいる。おまえは“館林見晴”という 名前でこれから三年間、その夫婦の下から高校に通うとよい。』 「はい。」 『では健闘を期待しておるぞ。』  その声とともにそれまで見晴の前に確かに存在していた神様の気配はスーッ と空気に吸い込まれるように消えて行った。
 

第二話『伝説の樹の下にて』

 キーンコーンカーンコーン  チャイムの音が響き渡る。入学式を終えて家路に付き始めた新入生たちがち らほらと校庭に姿を見せはじめた。 「ふう、やっと終ったわ。」  見晴は校舎から出ると今までの緊張を解きほぐすように大きく一つ深呼吸を した。  人間の姿を貰ってから既に数日が過ぎていた。少しづつ新しい環境にも慣れ 始めてはいたが、学校には今日が初登校、見晴にとっては見るもの聞くもの目 新しく、殆どのことが初めての経験ということもあり、ひどく緊張してしまっ た。そのため少々疲れを感じている。 「なんだか学校ってところは肩の凝るところね。」  肩をトントンと軽く叩いて肩の凝りをほぐしながら見晴は呟いた。そうしな がらふと校庭に目を向けると一本の古木の姿が見晴の目に飛び込んできた。そ の樹は校庭に何本か立っている立ち木の中でも、ひときわ大きな存在感を漂わ せて聳え立っていた。 『あれが神様の言っていた、伝説の樹……。』  見晴の視線は自然とその樹に釘付けになった。あの樹に宿る精霊の選択が彼 女の運命を決定付けることになるのだと思うと、体の中をぞくぞくと震えが走 るような感覚に囚われていた。  あの樹の伝説については入学式当日までに色々と調べてあった。卒業式の日 にあの樹の下で女の子からの告白で生まれた恋人達は永遠に幸せな関係になれ るという……。  しかし神様からの教えを受けた見晴はそれ以上のことを知っていた。あの樹 の下で卒業式の日に告白出来る女の子は一年にたったの一人、あの樹が永遠に 幸せな関係になるに相応しいと判断した女の子だけなのだ。それ以外の女の子 はあの樹が作り出す不思議な結界によって、意識をそらされてしまい“伝説の 樹の下での告白”という思考に辿りつけないまま、その日を終わってしまうこ とになるという。  いつの間にか見晴の足は伝説の樹の下へと向かっていた。下から見上げると 木漏れ日が彼女の体を包み込むようにきらきらとこぼれ落ちてくる。この伝説 の樹が彼女の希望の全てなのだ。  見晴は伝説の樹の幹にに頬を押し当てた。そのまま目をつぶって暫くの間、 じっと祈るように伝説の樹に頬を押し当てていた。 『三年後の卒業式、きっと私はこの場所であの人に想いを告白するわ』  見晴は樹に話し掛けるように小さく呟いた。  それにしても相手に名前を知られてはならない、という条件は少々厳しすぎ るように思えた。もしデートに誘うことが出来ても名前を聞かれて答えないと いうのは不自然過ぎる。長時間、彼と一緒にいるというシチュエーションは諦 めるしかなさそうだ。それでいて彼に自分の印象を植え付けなくてはならない。 そもそも彼が自分の存在を知らないままでは恋愛もへったくれもあったもので はない。見晴は暫くじっと考えていたが、妙案を思い付くことは出来なかった。 『とにかくまずは彼のことをよく調べてみることね。そうしている内にいい方 法が思い浮かぶかも知れないし……。』  彼のクラスがA組、見晴がF組と教室が離れていたのは神様の配慮だったろ うか……。  その時、誰かが近づいてくる足音が聞こえてきた。見晴ははっとして、咄嗟 に樹の後ろ側に身を潜めた。 「おい、見ろよ。これがさっき言った伝説の樹だぜ。」 「ふうん、なんか他の樹とは存在感が違うな。」  近づいて来たのは、見晴と同じように、今日この高校に入学したばかりの新 入生の男子二人組だった。 『あ、あれは・・・。』  樹の陰からこっそり二人の様子を覗き見ていた見晴はその内の一人を見てド キッとした。茶色い髪のお調子者っぽい男の子と連れ立って歩いてきたのは、 見晴が胸にその面影を大切にしまいこんでいたあの人だった。見晴の胸に初め て彼に会ったあの時のことが蘇ってくる。彼はあの日のことを覚えているだろ うか……。 「この樹の下で女の子から告白されると一生幸せになれるってんだからなぁ。 うらやましい話だぜ。」  茶色い髪の男の子が樹を見上げて、彼に話し掛けた。  「そう言えば詩織もそんなことを言ってたことがあったっけ……。」 「おっ、藤崎詩織か? おまえ幼馴染だもんな。」 「ああ、詩織のお祖母さんもこの樹の下で告白したって話を子供の頃に聞かさ れたそうだ。」 「ふうん、そういう実例を聞かされると伝説も信憑性が増してくるな。それに してもあんな美人を“詩織”と呼び捨てに出来るなんておまえは本当にうらや ましい奴だぜ。」 「それは幼馴染だし……、子供の頃からそう呼んでるんだから、今更、“藤崎 さん”なんて呼ぶのは不自然だろ?」 「そりゃまあ、そうだが……。おいっ、おまえは当然、藤崎詩織が本命だろ?」 「べ、別に俺と詩織はそんな関係じゃ・・・。そりゃ詩織は幼馴染だけど。」  彼は少々慌てたように茶色い髪の男の子の言葉を否定した。 「それに今の俺は野球のことで頭が一杯なんだ。」 「ふうん、でも藤崎詩織も同じ野球部でマネージャーをやってるよな。偶然と も思えないんだが……。」 「ぐ、偶然だよ・・・。」  樹の裏側で彼らの言葉を聞いていた見晴には“藤崎詩織”という女の子につ いて話す彼の口調になんとも形容し難い感情が混じっているのを感じとってい た。それは恋とも違う、友達とも違う、姉や妹に対するものとも違う、あやふ やだがそれでいて微妙な……。 『藤崎詩織さん・・・。どんな人なんだろう・・。』  彼の幼馴染、彼が名前で呼び捨てにする人。そしてもしかしたら見晴のライ バルになるかも知れない人……。二人の会話から類推するとかなりの美人でも あるらしい。 「そう言えばお前知ってるか?」 「何を?」 「きらめき動物園に来る筈だったコアラのことだよ。」 「コアラがどうしたって?」 「なんでも動物園に運ばれてくる途中で逃げ出したらしいぜ。」 「ふうん。そう言えば……。」  彼は少し考え込むようにして言った。なにかを思い出そうとしているようだ。 「そう言えば・・・なんだ?」 「ああ、いや、なんでもない。」 「そうか? あ〜あ、折角コアラが見られるようになると思ったのによ。」 「そんなにコアラが楽しみだったのか?」 「そりゃ、そうさ。なんせ女の子はコアラが好きだからな。動物園にデートに 誘う絶好の口実になるじゃないか。」 「そういう理由か。お前らしいな。」    そんな話をしながら彼らは伝説の樹を後にして遠ざかって行った。見晴はち ょこんと樹の陰から顔を覗かせると校門に向かって歩いてゆく二人の姿を見送 った。制服姿の彼は見晴の記憶の中にある彼とは少し印象を異にしていたが、 樹を隔てて聞いた彼の声はあの日と変わっていなかった。  今日は樹を隔てての再会だったが、三年後にはきっと……。  そんな思いを胸に見晴の高校生活第一日目は静かに過ぎて行った。
 

第三話『コアラのマーチ』

「あ〜、今日も遅くなっちゃた。」  既に日はとっぷりと暮れて夜の帳が街を覆い始めている。野球部の練習を物 陰から見学していた為すっかり家に帰るのが遅くなってしまった。見晴は小走 りに家路を急いでいた。 「お母さん、ただいま。」  見晴は息を切らせて玄関のドアを開けると元気のよい声を出して言った。 「おかえり見晴、今日も遅かったのね。」  そんな見晴を母は笑顔で迎える。 「でも気をつけて頂戴、若い女の子の夜の一人歩きは危険だから……。」 「えへっ、ごめんなさい。でも大丈夫よ。私、逃げ足だけは自信あるから。そ れよりお腹空いちゃった。」 「さっさと着替えてきなさい。御飯出来てるわよ。」 「わ〜い、お母さんの料理、いつもおいしいから大好き!!」  そういうと見晴は母に抱きついて頬に軽くキスをした。 「まあまあ、この子ったら。」  母は言いながら、嬉しそうに頬に手を当てていった。  見晴が高校に入学してから既に一年半の月日が流れていた。神様が設定して くれた館林の夫婦との親子関係も最初はややぎこちなかったが、夫婦が愛情を 持って接してくれた為、今では本当の親子のように打ち解けていた。  彼は甲子園を目指して毎日、夜遅くまで練習を続けていた。夏の県大会ベス ト4、秋の県大会では準優勝し、彗星のように現れた彼の力によってきらめき 高校は一躍、来年夏の県大会での優勝候補に目されるようになり、学校全体が 甲子園気分で盛り上がりつつあった。  見晴は毎日のように遅くまで、気付かれないように物陰から彼の練習する姿 を見つめていた。  その為、毎日帰りが遅くなるのだが、母には“図書館で勉強をしている”と 言ってあった。嘘をつくことには多少の後ろめたさもあったが、かと言って本 当のことを言う訳にもいかなかった。  彼に自分のことを印象づける為に、見晴が最初に考え出したのは偶然のふり をして彼にぶつかる、という方法だった。この方法は、隣のクラスの長身で高 校生離れしたプロポーションと美貌を持つ女生徒が、狙いをつけた男子生徒に 次から次へと偶然のふりをしてぶつかり、その男子生徒たちを巧みに自分の崇 拝者に仕立てあげていくのを見て思い付いたものだった。  しかし唯、ぶつかるだけでは印象が薄いかも知れない……。そう思って彼に ぶつかる時には髪を二つに分けてそれにムースをつけて輪っかを作り、更にミ ストでしっかり固めて、アニメでしかありえないような不思議な髪型を作るこ とにした。こうすることによって印象度は増すだろうし、ちょっと見には見晴 だとは判らなくなる。  もし彼が見晴に興味を持って名前を知ろうとして、誰かに“こんな髪型の女 の子”と説明したとしても、誰にも判らないという寸法だ。勿論、その髪型を 作った日は同じクラスの生徒には会わないように気をつけ、授業は自主休講に してしまう。  ぶつかるという方法は見晴としてはなかなかの名案であるかのように思われ た。それによって彼に多少なりとも印象を与えることも出来るし、話をするこ とも出来る。近ごろではぶつかって行くと『また当たり屋か。』と彼の方も見 晴のことを認識してくれるようになっていた。  もう一つ考え出したのが電話だった。これは電話なら顔が見えないし、名前 を名乗っても自分だとは判らない、というのが便利に思えてのことだ。既に数 回、彼の留守番電話に声を吹き込んでいた。勿論、彼が家にいない時間を狙っ て掛けたのは言うまでもない。  また彼の近況について調べることも怠らなかった。彼は入学当初はさほどで もなかったが、最近は野球部で活躍していることもあって、女子の間でファン が増えていた。特に運動部のアイドルと言われている虹野沙希、彼の親友の妹 である早乙女優美、この二人はいつも彼の前で顔を赤くしているようだ。そし て既に何回か彼とデートをしている。彼女等の彼に対する視線は要注意だ。  だが一番のライバルになろうかと思われた藤崎詩織、この人物が見晴には今 ひとつ掴めずにいた。親しく二人きりで出かける時があるかと思えば、学校帰 りには恥ずかしいからと彼の誘いを断ったりする。彼に対して好意以上のもの を持っているように思える時もあるが、虹野沙希や早乙女優美のように顔を赤 くしている訳でもない。だが常に彼のそばにいて勉強や雑談に付き合っている。  彼の方も詩織、沙希、優美と等距離に付き合っているように見えて、詩織に 対しては他の二人とはちょっと違った距離を保ち、それでいてなにかしら目に 見えない繋がりを持っているように思える。これは幼馴染ということで子供の 頃からよく知っているというのが、大きな原因であろうかと思われたが、それ が“恋”の感情に繋がるものなのかどうか、見晴には判断がつきかねた。  食事が終わると見晴は後片付けを手伝った後自分の部屋に戻った。机に向か って宿題をやりながら、しかし時々その手を止めて彼のことに思いを巡らすの だった。  突然、コンコン、と、窓を叩く音が聞こえた。  見晴は宿題の手を止めて窓の外に目をやった。庭には二階にある見晴の部屋 まで届くような大きな木が立っているのだが、その木に小さな影が掴まってい る。 「ミハル、ミハル。」  その影が窓の外から呼び掛けてきた。 「えっ?」  見晴は驚いて目を凝らして窓の外の木に掴まっている声の主を見つめた。 「俺だよ俺。もしかしたらと思って後をつけて来たんだけど、やっぱりミハル だった。」 「マーチ!!」  ミハルは思わず懐かしそうな声をあげた。木の上から見晴に呼び掛けたのは 一匹のコアラだった。 「よく私が判ったわね。今はこんな姿をしてるのに……。」 「やっぱりミハルだった。どんな姿をしていてもミハルはミハルだ。俺が見違 えると思うかい。」  見晴は窓を開けるとまるで親しい友人であるかのように、マーチを部屋に迎 え入れた。コアラと言葉が通じることを特に不思議だとは思っていないようだ。 「どうしてここに? 九州に行ったんじゃなかったの?」 「まあ、色々あってね。なんでもこの街に来る筈だったコアラが逃げ出したと かで、代わりに俺がこっちに回されたんだ。それで今はこの街の動物園にいる って訳さ。」 「あはは、なるほどね。」  見晴はマーチの説明を聞くと、そう言ってちろっと舌を出して見せた。 「それにしてもミハルの方こそ人間の姿になってるなんて驚いたよ。」 「ふふ、神様の御陰なの。この街にはとても力の強い神様がいるのよ。」 「しかしなんだってまた人間なんかに……。」 「そ、それは……。」  見晴は少し口ごもった。マーチはそんな見晴の様子を見て鋭く察知したらし く言った。 「あの時の……、あの男のためか?」 「う、うん・・まあね。とは言っても条件付きなんだけどね。彼に名前を知ら れてはならないし、卒業の日に彼と結ばれることが出来なければ……。」 「出来なければ??」 「えっと・・・そう、出来なければ元の姿に戻されるの。」 “条件をクリア出来なかった時には空気に溶けて消えてしまう”神様の言った 言葉をマーチに聞かせて、余計な心配をさせることはない。そう考えて見晴は 言いかけた言葉を慌てて呑み込んで言い換えた。 「でももし彼と結ばれることが出来たら一生この姿のままで、あの人と暮らし ていけるのよ。」 「ふうん、人間なんかのどこがいいのか、俺には判らないけどな。それにその 条件ってちょっと無茶苦茶じゃないか? 名前を知られてはならないなんて、 それじゃデートも出来ないじゃないか。」 「そりゃ、そうなんだけど。でも仕方がないのよ。強い魔法には強い副作用が あるんだって・・・。それに例えどんなに条件が厳しくても私は……。」  そう言った見晴の思い詰めたような面持ちをマーチは複雑な思いで見つめて いた。そうまでして彼を想う見晴……。その見晴の心情はマーチをなんだか息 苦しいような気持ちにさせていた。 「そろそろ帰らないと……。」  暫く近況は話し合った後、マーチは言った。 「飼育係のおっさんに見つかるとまずいからな。また時々来るよ。何か俺に出 来ることがあったらいつでも言ってくれ。」 「うん、マーチ、今日は来てくれてありがと。この家のお父さんやお母さんは 優しくしてくれるけど、やっぱり懐かしい顔を見ると元気が出るわ。」 「それじゃ。」  そういうとマーチは窓から木に飛び移るとスルスルと降りて行き、夜の闇の 中に消えていった。
 

第四話『決勝戦の日』

 三年目の夏が訪れ、いよいよ甲子園を目指しての県大会が始まった。きらめ き高校は順調に勝ち進み、いよいよ決勝戦、あと一つ勝てば甲子園である。決 勝の対戦相手は昨年夏、今年の春、と二期連続甲子園に出場し、春の甲子園で はベスト4にまで進出した県下でも屈指の強豪・袖竜高校。エースの番長之介 (ばん・ちょうのすけ)はプロも注目する超高校級の投手だ。  この頃、見晴の心には迷いが生じていた。自分の印象を彼に植え付けるとい う点に関してはある程度成功していた。電話や学校でぶつかるという方法以外 にも彼のデート場所に間違えたふりをして出かけてみたり、練習試合の時に彼 を激励に行ったりということも試していた。  彼はそんな見晴に対して特に不快感を見せるようなこともなかった。それが 時には見晴に“もしかしたら脈があるのかも……。”という気持ちを抱かせる こともあった。だが、最近、藤崎詩織の彼に対する接し方が変わってきた感じ があり、それが気になっていた。  勿論、詩織は虹野沙希や早乙女優美のようにはっきりとした形で彼にアプロ ーチしようとすることはなかった。なんだか意図的に彼との間には常に一定の 距離を置こうとしているように見えた。だがそれでいて詩織と彼の間には沙希 や優美に対するものとは違う、何か目に見えない不思議な繋がりがあるような、 そんな気持ちを抱かされてしまうのだ。それが見晴を不安にさせていた。 「あなたも……、彼を見ているのね。」  決勝戦の日、華やかな応援団から離れて、物陰から彼の試合の様子を見守っ ていた見晴に誰かが声をかけた。振り返るとそこに立っていたのは虹野沙希だ った。 「たぶん、彼は気付いていないと思うけど、ずっとあなたのことは気になって いたのよ。いつも物陰から彼を見ていたし……。たぶん私も同じ気持ちで彼を 見ているから……。」 「虹野さん……。」 「彼が何故あんなに一生懸命になって野球に打ち込んでるか知ってる?」 「それはやっぱり甲子園を目標に……。」 「勿論、それもあるわ。でもそれだけじゃないの。私、聞いちゃったんだ。彼 と藤崎さんの小さい頃のこと……。」 「えっ?」 「彼と藤崎さんが幼馴染だってことは知ってるでしょ? その藤崎さんが小さ い頃彼に言ったそうよ。“私を甲子園に連れてって”って……。たまたまテレ ビで放送されていた高校野球を見ていて、藤崎さんはすっかり夢中になってし まったそうなの。たぶん、藤崎さんにしてみたら幼い頃のほんの戯れから出た 言葉だったのかも知れない。でも……、彼はそんな昔の藤崎さんの言葉をずっ と心の中に秘めていたのよ。」  沙希は言葉を切ってバッターボックスに立つ彼に目をやった。決勝戦は息詰 まる投手戦となっていた。番長之介の魔球“超眼力ボール”の前にきらめき高 校打線は凡打の山を築いていた。  しかし9回表、四球でランナーが出た。そのランナーが送りバントで二塁に 達し、迎えるバッターは四番のあの人。彼の顔に汗が光る。彼は今まで見たこ ともないような真剣な顔つきでバッターボックスに立っていた。 「あの人、私の作ったお弁当をおいしいって言って食べてくれた。修学旅行の 時、熱を出した時には見舞いにも来てくれた。彼、優しい人だから近づいてく る女の子に邪険になんか出来ないのよ。私も一時は藤崎さんよりも彼に近づく ことが出来たと思ったことがあった・・。  でも駄目なのよ。彼の心にはどうしても越えられない壁があるの。そしてそ の壁の向こう側には藤崎さんが住んでいるのよ。私は彼の頑張る姿を見て彼に 惹かれたんだけど、その頑張る力を彼に与えていたのは藤崎さんだった。あの 二人、お互いを恋の対象であるかのように振る舞うことは極力避けようとして いるように見える。でも私は気付かされてしまったの。私がどんなにあの人の 気を引こうとしてもあの二人の絆には到底適わないって……。」  球場全体に歓声が響き渡る。番長之介の三球目、彼の打った球はライナーと なって遊撃手の左を破り、転々と左中間にボールが転がっている。二塁にいた ランナーが一気に三塁を回ってホームに生還した。ついにきらめき高校が一点 を先取したのだ。 「私、思ったわ。藤崎さんみたいな……、どうしてあんな人がいるんだろう… …、どうしてあの人が彼の幼馴染なんだろうって。あの人さえいなければ……。 でもそれって違うのよね。今のあの人がいるのはすぐそばに藤崎さんがいたか らだった……。そしてたぶん今の藤崎さんがあるのも彼がそばにいたからなの よ。」  沙希は淋しそうな声音で言った。見晴と同じ想いを胸に秘めていた沙希の言 葉は、見晴が感じ始めていた漠然とした不安をまるで言い当てているかのよう だった。そしてそれまで漠然としていたものが、見晴の中で急速に形を成し始 めた。彼と藤崎詩織の間にある見えない糸……。その存在が現実感を伴って見 晴にもはっきりと感じられるようになっていた。  9回裏、最後のバッターのバットが空を切った。両手を高々と上げてガッツ ポーズを取る彼。その彼のもとに選手たちが歓声を上げて集まっていく。ベン チでは藤崎詩織が静かに笑みをたたえながら、彼の姿を見守っている。その頬 をうっすらと光る物が伝ってゆく。ナインにもみくちゃにされながら、しかし 彼の視線も確かに詩織の姿を追っていた。  神様は言った。“辛い想いをすることになる”と。神様は知っていたのだろ うか……、彼の側にあれほど強い絆で結ばれた女の子がいることを……。だか らあんな風に言ったのだろうか……。  そして沙希の言葉“どうしてあんな人がいるんだろう……。” それはその まま見晴の心情そのものだった。“あの人がいたからこそ今の彼がいる”それ は見晴にとって胸をえぐられるような現実だった。 「でもね。私は一つだけ希望を持っているのよ。伝説の樹、卒業式の日にあの 樹の下で彼に告白することが出来れば……、私にもまだチャンスはあるかも知 れないってね。」  沙希は最後にそれだけ言って、見晴の前から立ち去った。だが沙希は知らな いのだ。伝説の樹に選ばれなければ、告白のチャンスは永遠に訪れないという ことを……。伝説の樹は沙希を選ばないだろう。そして恐らく見晴自身も。  神様の力によって樹の姿に変えられたという悲恋の娘の言い伝えには、後日 談があることを見晴は知っていた。娘を裏切ったと言われている若者。彼はそ の後、村に娘を迎えに帰ってきたのだ。だが時既に遅く、娘は帰らぬ人となっ ていた。若者はその後妻帯もせず、樹のそばに小屋を建て、その樹を見守るよ うにして一生を終えたという。そして死後彼の亡骸は樹の根元に埋められた。  伝説の樹に宿る精霊となった娘は若者を信じきることが出来なかった自分自 身の愚かさに激しく慟哭した。愛しあう男女の間に結ばれた深い絆。それは時 に波風にさらされて翻弄され、断ち切られてしまうということもしばしば起こ り得る。  伝説の樹に宿る精霊となった娘は、自分たちが守り切ることが出来なかった その大切な絆を守護する守り神となったのだ。  そして……、彼との間に伝説の樹が守護すべき絆を築き得たのは藤崎詩織唯 一人だった。虹野沙希もそして見晴自身も彼との間にそのような絆を作り上げ ることは出来なかった。  いつの間には日は落ち、辺りに夕闇が迫っていた。人気のなくなった球場で 見晴は放心したように座り込んでいた。 「ミハル、こんなところにいたのか。部屋にいないからどこに行ったのかと思 ったら……。」  声を掛けたのはマーチだった。マーチはあれ以来時々見晴の部屋を訪れ、見 晴を元気づけてくれていた。 「マーチ・・・。」  見晴は顔を上げてマーチを見た。そしていきなりマーチの体を抱きしめた。 「お、おいっ、なんだよ、ミハル!! 今日は少し変だぞ。」  マーチは驚いて少々上ずった声を出した。 「マーチ、ごめんなさい。でもほんの少しの間だけでいいから……。このまま でいて……。」  マーチは見晴の声に悲痛な響きが混じっているのを感じ取ってドキッとした。 見晴の鼓動がマーチに伝わってくる。その鼓動はまるで見晴の胸の痛みをその まま伝えてくるかのように感じられた。マーチは途方に暮れたようにそのまま じっとなすがままになっていた。
 

第五話『見晴の決意』

 お正月も過ぎ、高校生活も既に残り少なくなっていた。彼は甲子園に出場し、 見事に初出場での初優勝を飾った。  大会が終った後、彼は野球部から引退し、受験勉強に熱を入れている。噂で は藤崎詩織と同じ大学に入ろうとそれを目標に頑張っているとのことだった。  今日も二人は図書館に出かけていた。詩織は自分の勉強もそっちのけで彼の 受験勉強に協力している。彼の方も時々不平を言いつつも真剣に受験勉強に取 り組んでいた。  見晴はそんな二人の様子を図書館の片隅でそっと盗み見るように見ていたが、 やがていたたまれなくなって外に出た。  どんよりと曇ったその日の空はまるで見晴の心を映し出しているかのようだ った。  見晴の足はいつの間にか神社に向かっていた。三年前、ここから全ては始ま ったのだ。  あの時、神様は言った。 『お前が心に思う少年に想いを寄せる者はお前だけではないだろう。おまえは 手枷足枷をつけた状態で、彼女等が少年と戯れる姿を見ることになるかも知れ ない。お前が条件をクリアして、彼と結ばれる可能性は千に一つ、いや万に一 つもないかも知れない。辛い思いをすることになるぞ』、と。  言われた時には心の中で熱く燃えるような思いが渦巻いていたこともあって、 どんな辛いことにも耐えられると思った。だが今、現実に彼と藤崎詩織が仲睦 まじく過ごす姿を目の当たりにして、見晴の心は千々に乱れていた。  見晴はちょうど三年前にやったように社の前に跪いた。 『教えて下さい。神様。伝説の樹は誰を選ぼうとしているのか……。神様は詩 織さんのことを知ってたんですか? 私・・・、ホントは判ってます。でもも しはっきり言って貰えたら……。』  暫くそのままの姿でじっとしていた。もしはっきりと伝説の樹の意向が判っ たら……? しかしそれを知ったからと言ってどうなるものでもないことは見 晴にも判っていた。それでも、自分の心の中で踏ん切りがつけられるかも知れ ない……、そうしたら・・・。  だが神様は沈黙したまま、声が聞こえてくることはなかった。  いつの間にか雨が降り出していた。冷たい冬の雨が見晴の体を濡らしてゆく。 見晴はそんなことに気付きもしないように跪いたまま動こうとはしなかった。 「どうしたの、風邪を引くわよ。」  誰かが見晴に傘を差し掛けた。顔を上げると藤崎詩織が心配そうな顔で見晴 を見下ろしていた。 「あ、あなたは……、藤崎詩織さん……。」  見晴は思いもかけない人物が目の前に現れたことに少々当惑していた。 『確かさっきまで彼と一緒に図書館にいた筈じゃ……。』  詩織の手には神社の学業成就のお守りが握られていた。数日後に迫ったバレ ンタインデーにチョコとともに彼に渡すつもりか……。これを買う為に彼と別 れて図書館を抜け出してきたんだろうか……。 「あら、私のこと知ってるの? そういえば学校で見掛けたことがあったかし ら?」  詩織は思い出そうとするかのように小首を傾げている。 「え、ええ」  見晴は気のない素振りで答えた。 「そんなことよりずぶ濡れじゃないの。家はどこ? 遠いの? もし遠いんな ら私の家、すぐ近くだから、雨宿りしていかない?」  詩織は見晴をいたわるように言った。 「いいえ、結構です。私のことはほっといて下さい。」 「そんな訳にはいかないわよ。このままだったら風邪を引くわ。」  見晴の邪険な言葉にも詩織は気を悪くした風も見せず、心配そうに見晴を見 つめていた。そんな詩織の視線が見晴には辛かった。 「いいのよ。ほっといてって言ってるでしょ!!」  そう叫ぶように言うと見晴は雨の中を逃げるように駆け出した。 「あ、待って……、どうしたのかしらあの子……。」  詩織はやや驚いた様子でそれでも見晴を気遣うようにいつまでも見晴が駆け 去った方向を見つめていた。 『どうして? どうして・・・? 私になんか優しくしないでよ! 私はあな たを憎みたいのに……。』  見晴の心の中はグチャグチャだった。どうしてあんな人がいるんだろう……。 どうして……、どうしてあの人が彼の幼馴染なんだろう……。  幼い頃からすぐ近くで育ったからと言って必ず結ばれるというものでもない だろう。だが彼が出会った相手は藤崎詩織だった・・・。二人は常に互いの存 在を意識し合い、共に自らを高めあい、絆を深め合いながら成長してきたのだ。  二人が長い時をかけて築き上げてきた深い絆。それは他の何者も踏み込むこ とを許さない高く厚い壁のように見晴の前に厳然と聳えたっていた。  なんだか自分がすごく惨めに思えた。神様に願ってチャンスは貰ったものの、 見晴にとって彼は今もやはり遠い存在だった。  神様はあの人が彼のそばにいることを知ってたんだろうか……。もし神様が 最初から詩織の存在を知っていて、こうなることを見通していながら、見晴の 願いを叶えたのだとしたら、それはあまりにも残酷な仕打ちではないか……。  でも・・・、と見晴は思った。もしあの時それを告げられていたとしたら、 彼のことを果たして諦めることが出来ただろうか? あの日、瓦礫の下で震え ていた見晴に救いの手を差し伸べてくれたあの少年。あの人への想いを断ち切 ることが本当に出来たのだろうか……。神様はそんな見晴の心情さえも見抜い ていて、敢えて見晴の望みを叶えたのだろうか……。                  *  ふと気がつくと見晴は自分の部屋のベッドに寝かされていた。目を開けてぼ んやりと天井を見つめていると、ドアが開いて母が部屋の中に入ってきた。 「まあ、見晴気がついたのね。」  母は見晴の様子を見て安堵したようにほっと一つ息をついた。 「あ、お母さん・・。」 「心配してたのよ、ずぶ濡れになって帰ってきたかと思ったら、いきなり気を 失って……。そのまま二日も目を覚まさないでいたんだから……。」 「ごめんなさい、お母さん。心配かけて……。」 「ううん、気にしないでいいのよ。子供は親に心配をかけるのが仕事みたいな もんなんだから。でもあんまり無茶はしないでね。あなたは私とお父さんのな によりも大切な宝物なんだから。」  母は目を細め見晴を慈しむような視線を向けて、心の底から嬉しそうにそう 言った。  館林の夫婦は本当に見晴によくしてくれた。勿論、神様の魔法で自分たちの 本当の子供だと思い込まされている為もあるだろう。だがそれ以前に二人はと ても優しい気持ちを持っている人たちだった。そして子供が欲しいと願ってい たにも拘わらず、得られずにいた年月の分、積もり積もった愛情を全て注ぎ込 もうとするかのように見晴に接してくれていた。 『でも……。私はこの人たちも騙してるんだ……。』  見晴の心にチクリと痛みが走った。自分を本当の娘だと思い込んで愛情を示 してくれる館林の夫婦……。だが見晴に残された時間はあと少し。神様の提示 した条件をクリア出来なければ、自分はこの人たちともお別れしなくてはなら ない。そして条件をクリアするのは絶望的な状況でもあった。  勿論、夫婦の心から見晴に関する記憶は消されてしまうだろう。だが一度刷 り込まれた記憶というものは完全に消し去ることが出来る訳ではない。それは 彼らの心の深い場所で生き続け、彼らの心に微かな痛みとして影を落とすこと になるだろう……。 「うん、7度2分か、だいぶ熱も下がったみたいね。一時は40度近い熱を出 してて心配したけど、もう大丈夫ね。でももう少し寝てた方がいいかな?」 「うん、そうする。」 「何か食べたいものある? 今日はなんでも作ってあげるわよ。」 「ううん、今はいいわ。ありがとうお母さん。」 「そう? じゃ、あとでお粥でも作ってきてあげるわ。今はゆっくりおやすみ なさい。そうそうお父さんにも早く知らせてあげなくっちゃ。お父さん、今朝 は会社を休んで見晴を看病するって駄々こねてたのを無理矢理会社に行かせち ゃったのよ。もしかしたら仕事も手につかずにいるんじゃないかしら。見晴が 目を覚ましたことを知らせてあげたらきっと大喜びするわ。」  そういうと母は部屋を出ていった。  見晴はぼんやりと窓の外を眺めていた。どうしよう。私に残された時間はあ と少し……。でもこのままで消えていくなんて悲しすぎる。せめて・・、せめ て・・・?  窓の外を眺めていた見晴の目に小さな黒い影が映った。マーチだった。見晴 を案じて来てくれたらしい。見晴は体を起こして窓を開けるとマーチを部屋に 迎え入れた。 「ミハル、もういいのか?」 「マーチ、ごめんね。マーチにも心配かけちゃったわね。」 「それにしてもなんだって雨の中をほっつき歩いていたんだ? あんな無茶を して風邪を引くのは当たり前じゃないか。」 「それは・・・。」 「あの男が原因か? もしそうなら・・・。」  マーチは目に不穏な色を湛えて言った。 「やめて! マーチ! あの人は関係ないわ。あの人は私の気持ちなんて知ら ないんだもの。全て私自身の問題なんだから。」  マーチは動物園の檻を簡単に破って外を出歩いているようなコアラである。 その気になれば、人間に危害を与えるくらいのことは平気でやってのけるだろ う。だが見晴の剣幕に気圧されたのかマーチはすぐにその言葉を取り消した。 「判ったよ、何もしないよ。でもミハル。俺はもう君のそんな悲しい顔をみる のは耐えられないんだ。もう十分だろう? あの男のことは忘れて、元の姿に 戻って欲しいんだ・・・。」 “元の姿に……。”その選択肢は存在しないことをマーチは知らない。彼と結 ばれることが出来なければ・・・・。 「ごめんなさい、今日は帰って。まだ病み上がりで疲れてるのよ。それに一人 で考えたいこともあるし……。」  見晴はマーチの言葉には答えず、うつむいてそう言った。マーチもそんな見 晴の様子を見て、それ以上その話題を続けようとはしなかった。 「判った。そうする。でもミハル、あんまり無茶はしないでくれよ。」  そういうとマーチは窓を乗り越えて帰って行った。  一人、部屋に残された見晴は暫くの間、うつむいたままじっと何かを考えて いた。そしてやがて一つの結論に達した。 『このまま空気に溶けて消えてしまうなら、せめて、その前に・・・・。』                  *  卒業式も一週間後に迫った2月22日、見晴は彼に電話を掛けた。 『もしもし、館林です。』 『あのね、お願いがあるんだ。暇だったらでいいんだけど…、中央公園に来て くれないかな?』 『お願い、きっと来てね。』
 

最終話『君が通り過ぎた後に』

 彼への電話、それは見晴にとって賭けだった。彼は電話に出るか? そして 中央公園に来てくれるかどうか? 来なければ来ないで諦めもつく。もし彼が やってきたらその時は……。  そして彼は誰とも判らない女の子からの呼び出しに応えて公園まで足を運ん でくれた。  いつものように偶然のふりをして彼にぶつかった。彼もそれが偶然でないこ とを既に見抜いてくれていたようだった。そして見晴は彼に自分の名を告げた。  二人で歩いた並木道。彼の背中にしがみつくようにして想いを告げようとし た見晴。そんな見晴を彼は咎めようともせず、優しく受け止めてくれた。彼の 背中で感じた匂いは、初めて彼に会ったあの日、彼に抱きかかえられた時の匂 いそのままだった。                  *  彼が去った並木道で見晴は一人放心したようにたたずんでいた。これで何も かも終わってしまったんだわ。神様の示した条件に背いてしまった。  でも仕方ないわ。あの人の心の中は藤崎さんのことで満たされていて、私の 入り込める隙間なんてどこにもないんだもの……。見晴の頬を冷たい雫が伝い 落ちる。 「ミハル・・・。」  自分の名を呼ぶ声に振り向くとマーチが一本の木の上から見晴を見下ろして いた。マーチは見晴の様子がいつもとどこか違うことに気付き、こっそり後を つけてきたのだった。 「やだ、見てたの、マーチ」  見晴は慌てて両手で頬を拭った。だが涙は後から後からこぼれ落ちてくる。 「ミハル、これで気が済んだだろう。元の姿に戻ってまた昔のように楽しく暮 らそう……。」  マーチは見晴をいたわるような声音でそう言った。 「ありがと、マーチ。優しいのね。そんなのあんたに似合わないわよ。」  見晴は無理に笑い顔を作った。 「でも駄目なの。神様との約束なのよ。神様は確かに私を人間の姿にしてくれ た。でもそれはとっても難しい魔法で強い副作用を伴うものだったの。神様は 私に言ったわ。決してあの人に名前を知られてはならないって。そしてその上 であの人と結ばれることが出来なければ、空気に溶けて消えてしまうんだって ……。」 「えっ……?」  見晴の言葉はマーチの心に衝撃を与えた。三年間という期間が終ればまたミ ハルは元の姿に戻って、昔と同じように一緒に生活出来ると信じ込んでいたの だ。見晴はそんなマーチに静かに微笑みかけた。 「仕方ないのよ。神様に無理を言ったのは私なんだから。そして条件をクリア 出来なかったんだから……。覚悟は出来てるわ。  でも後悔はしてない。この三年間人間としていつかはあの人と結ばれるかも 知れないって夢を見ることが出来た。それに最後にとっても素敵な思い出を作 ることが出来た。私、あの人を好きになってよかったと思ってる。もう思い残 すことはないわ。」 「そ、そんな!! 嘘だろミハル!! 君が消えてしまうなんて、そんなこと 俺は絶対に許さないぞ!」 「ごめんね、マーチ。マーチには余計な心配をかけたくなくて言えなかったの。 ずっと私を見守っていてくれてありがとう。でももうお別れの時が近づいてき たみたい。なんだか・・体が軽いわ。」  そう言った見晴の体は、徐々に存在感を失いつつあるように見えた。まるで 空気の粒子が少しずつ見晴の体と同化して行こうとするかのようにおぼろげに 揺れている。 「空気に溶けるってどんなことなのかよく判らないけど、なんだか気持ちが安 らかになって行くみたい。」  見晴は静かな笑みを浮かべてマーチに小さく“さよなら”と言った。マーチ は消えて行く見晴を見て思わず叫んだ。 「ミハル! 待ってくれっ!! ミハル! 俺はずっと君のことが・・!!」  マーチはいても立ってもいられなくなって駆け出した。そのまま公園を抜け て裏の小高い丘に上って行く。そして神社の境内に出ると叫んだ。 「おいっ、神様、神様っ!! 本当にミハルは消えてしまうのか!! そんな ひどいこと……。そんな……。神様、あんたが本当に神様なんだったらなんと か出来るだろ!? なんとかしてくれよ! ミハルを助けてやってくれよ!!」  マーチはこぼれ落ちる涙を拭こうともせずに神様に訴えた。 「俺はずっと幼い頃からミハルを見守ってきたんだ。ミハルのいない人生なん て耐えられない。もしどうしてもミハルを俺から奪ってしまうというなら、俺 も一緒に……。」  マーチはそれだけ言うと全身の力が抜けたようにその場にうずくまって号泣 した。  ふと、マーチは何かの気配を感じて顔をあげた。境内の空気が一瞬歪んだよ うに思えた。そしてそれとともにマーチの心に直接語りかけるようにどこから か声が聞こえてきた。  それは三年前にこの場所で見晴が聞いたのと同じ声だった。神様の言葉を聞 いたマーチの顔は次第に驚きの表情に塗り替えられていった。 「まさか・・・そんなことが・・・本当に・・・?」
 

エピローグ

 おぎゃあ、おぎゃあ。  赤ん坊の泣き声が聞こえる。  一人の男が病院の廊下を走っていた。看護婦の「病院内では走らないで下さ い!」という注意も耳に入らないかのように走り続ける。彼は報せの電話を受 けて、会社を早退して取るものも取り合えずに駆けつけたのだ。  彼は目指す病室に到着するとドアを開けて部屋の中に飛び込んだ。ベッドの 上で身を起こした妻が部屋に入ってきた彼を見てにっこりと微笑みかけた。そ の腕の中には生まれたばかりの小さな命が抱かれていた。 「生まれたのか?」 「ええ、あなた。見て。可愛い女の子よ。」  母親は嬉しそうに父親に赤ん坊を見せた。 「そうか、女の子か。よくやったぞ。」 「名前はもう決めてるの」 「え?」 「あなたさえよければ“見晴”ってつけようと思って……。」 「見晴?? 本当に?」 「ええ。どう? 気にいらないかしら?」 「なんだか不思議だな。俺も生まれて来る子が女の子だったら“見晴”ってつ けようと思ってたんだ。」 「まあ、あなたもそうだったの? ふふ、不思議ね。なんだか“見晴”って名 前には凄く懐かしさを感じるの。」 「俺もさ。なんだか昔そんな娘がいたような……、この子が俺達の初めての子 供なんだからそんな筈はないんだけどな。」  病室に暖かな笑い声が響き渡った。そんな暖かな雰囲気に包まれて、赤ん坊 はいつしか泣きやんで母の胸の中で無邪気な笑顔を見せていた。  病室の窓の外に一本の大きな樹があった。その樹の上から、今、“見晴”と 名付けられたばかりの赤ん坊を見守る小さな影があった。彼は赤ん坊を慈しむ ような視線で見つめていた。  そんな彼の気配を知ってか知らずか、赤ん坊は何気なく窓の外に顔を向けた。 一瞬、目と目があった。その時赤ん坊が瞳の中に懐かしそうな色を浮かべたよ うに思えたのは気のせいだったろうか・・?  『神様の言ったことは本当だった。ミハル、俺はこれからもずっと君を見守っ ていくよ。そしていつか時が来れば・・・その時にはきっと……。』  通り過ぎた時間を胸に抱きしめて、彼はいつまでも病室の様子を見つめてい た。                            <Fin>
  初出 1996年9月15日〜9月17日   PC−VAN アーケードゲームワールド   #3−6ときめきメモリアル #2082〜#2083,#2095,                 #2125〜#2127   このSSは上記のボードに掲載されたものに、一部加筆修正を加えたもの   です。
 

あとがき


 えっとあとがきです。  このSS、元々の発想は見晴がどうしてあれほど主人公の前に何度も姿を現 しながら、正体を隠さなくてはいけなかったか? という疑問が出発点になっ てます。  勿論、普通に考えれば“勇気がなくて・・”ということに尽きるのでしょう が、それではちょっとありきたりなので少々捻ってファンタジー仕立てにして みました。 で、設定については色々考えたのですが、私が思い付いた中では“名前を知ら れてはいけない”というのが一番マシに思えましたのでこの設定を使いました。 かなり無茶な設定ですんで、辻褄の合わない部分もあるんですけど、多少のこ とは目を瞑って下さい。(^_^;)  今回のSSは高校生活三年間という長い時間を扱ったこともありまして、そ ういう点でも難しかったです。三年間の中でどの時点を切り取って話を進めて いくか……。あまり細々としたエピソードを入れてしまうとちょっと私の手に は負えないような代物になりそうでしたし……。で、結局、つなぎの意味での 一年半後、そしてストーリーの重要な節目となる三年目の夏の決勝戦、という 形に落ち着きました。  見晴と彼の出会いについてはSS中でははっきりと書きませんでしたが、色 々なパターンを考えてはいました。でもそれをはっきりと書いてしまうと、見 晴があれほど彼に惹かれたことの理由付けがなんだか弱くなってしまいそうな 気がしてしまったため、結局、ヒントだけはいくつか呈示してあとは読者の御 想像にお任せするという手法を取りました。  さて例によって、色々なところから借りてきた設定の補足説明。(^_^;)  詩織と主人公の幼い頃のエピソード、“私を甲子園に連れてって”という詩 織の言葉はあだち充の『タッチ』というマンガから設定を借りています。南ち ゃんが幼い頃に達也と和也に言った言葉ですね。  ときメモの主人公と詩織の関係ってなんだかタッチの上杉達也と浅倉南の設 定と共通する部分が多いような気がするんです。例えば幼馴染というのがまず そうですし、詩織も南ちゃんも才色兼備の殆ど万能な女の子、で、主人公は最 初の内は駄目男だけど、高校生活を通じて成長していく……。実際、最初に詩 織をクリアした時、たまたま野球部に入ってたもんで“詩織を甲子園に連れて いくんだぁぁぁぁ!”とか思いながらプレイしてました。(となるとさしずめ 早乙女優美が新田由加の役……、て感じかな? ポニーテールだし、年下だし ……。(^_^;))  この設定はもともとこのHPにもいずれUPする予定の『君がいたから・・』 というSSの為に考えた設定だったのですが、エピソードに困ってこちらの方 で先に使ってしまいました。最終話のサブタイトルも映画版の『タッチ3』か ら借りてきました。  最後の生まれ変わり。これはミンキーモモの第一部の最終回がヒントになっ てます。  コアラの名前は見晴の誕生日が三月三日とのことですので、そこから取って “マーチ”という名前にしました。・・・というのは真っ赤な嘘で本当はお菓 子の名前が元になってます。(^_^;)  見晴の髪型の作り方については電撃PSVol.27の読者欄でそういう投 稿がありましたので、それを参考にしました。しかし髪をおろした見晴ってち ょっと想像出来ませんよね・・・。(^_^;) と、いうことで。最後まで読んで下さったみなさん、どうもありがとうござい ました。(^_^)                       1997/07/27 眠夢

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