会社へ行く前、あることを思い出しました。
1991年8月5日、ホンダエンジンの生みの親である本田宗一郎氏が肝不全の為亡くなりました。享年84歳でした。
その6日後の8月11日第11戦ハンガリーGPで、そのころセナが所属するマクラーレンチームは、エンジニア、ドライバーを含むすべて人が喪章をつけその戦いに挑みました。
結果、セナは6戦ぶりに執念のポールポジションを獲得し、見事5勝目を上げます。
おいちゃんもその日、誰にも気づかれない様にYシャツの上から喪章を左肩につけ、スーツの上着を着て、会社へ向かいました。
会社へ行く途中、駅で売っているスポーツ新聞を全て買い込み、地元の上井草で売っている新聞と会社のある高田馬場で売っている新聞では内容が違う場合が有るので(印刷、販売店への配布の時間帯の違いから)、高田馬場の駅に着いてからも全て買い込みました。
一日がブルーでした。このあほあほおいちゃんが、ちょーブルー、鬼ブルー、MAXブルーでした。
暫くの間、何かこう虚脱感みたいなものを感じ、何も考えることが出来ませんでした。
頭の中を駆け巡る事は、「なぜ、あんなクラッシュで…」「なぜ、あのコーナーで…」。
彼ほどF1の安全性というものにこだわり続けたひとはいませんでした。他のドライバーが事故を起こしたときも真っ先に現場に駆けつけ、安否を気遣い、事故が起こる原因を探り続ける人でした。
しかしまさか、セナがあのようなコーナーでクラッシュし、あっけなく他界してしまうとは…。なにか、その時になにかおいちゃんに出来る事が無いかと必死で探していました。
丁度ゴールデンウィークということもあり、青山一丁目のホンダの本社の一階にあるホンダウェルカムプラザで、セナのドライブしたF1マシンを展示し、セナの死を惜しんでいました。
勿論おいちゃんも行きました。
入って正面に92年のF1マシン、マクラーレンMP4/7が置いてあり、その周りに花が、車が隠れて見えなくなる位の花が積まれていました。
横には、セナが設立したアイルトン・セナ財団宛ての寄せ書きが用意されていました。みんな様々な思いを込めて書いていました。しかしおいちゃん、なんて書いていいのかわからず、それに言葉を残すのはやめました。
たった一枚の紙では、人が死んだことに対する自分の気持ちを表現するには、あまりにも小さすぎると思ったからです。
1970年3月21日彼はブラジルの裕福な家庭に生まれました。4才でカートに乗り、ジュニアチャンピオンを総なめにして、1984年、初めてF1の世界にデビューしました。
ワールドチャンピオンを3回も獲りましたが、それに至るまでの道のりは決して楽なものではなく、今ではそのようなことはありませんが、ヨーロッパのモータースポーツというF1の世界に、南アメリカの人間が挑んで行くということは並大抵な事ではなく、同じチームのドライバーとの確執や主催者側からの圧力等で、一時はライセンス剥奪という騒ぎまでありました。
にもかかわらず、彼が走りつづけたのは何だったのでしょうか?
彼の祖国ブラジルはリオのカーニバルで有名です。しかし、貧富の差が今でも激しく、学校へ通えない子供も多く、病気で死んで行く子供も少なくないといいます。
そんなブラジル国民にとって、彼はまさに英雄であり希望の星でした。その証に、彼の葬儀は国をあげた国葬として執り行われたほどです。
病める国ブラジル。そんな祖国を思い、彼は走りつづけ、人一倍勝利に固執し、そしてまた走りつづけました。
そんな彼をおいちゃんは尊敬していました。彼のドライビングテクニックも素晴らしかったのですが、それ以前に彼の人間性、人生観、走ることに対するこだわり…。
おいちゃんは二次元のセナしか知りません。でも、いつかポルトガル語を覚えて色々語りあえたらと思っていました。
何を書いているのかさっぱりわからなくなってしまいましたが、今日5月1日はアイルトン・セナ・ダ・シルバの命日です。
この日がくる度、あんな人がいたんだなと、皆さんの心の奥で少しでも思い出してくれることがあれば、おいちゃんはとっても幸せです。
最後に、セナの冥福とこれからのF1というモータースポーツが少しでも多くの人に理解してもらえることを、お祈りします。
礼…。
前編はここね