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世事見聞録

書名:世事見聞録
著者:武陽 隠士
発行所:岩波書店
発行年月日:1994/12/16(1816年文化13年)
ページ:458頁
定価:770円+税

徳川の世も家康から200年も経ってくると士農工商の秩序も崩れて、武士をはじめとする社会の諸階級の内部矛盾、弊害などが段々現れてくる。武士、百姓、寺社人、医薬業、陰陽道、公事訴訟、諸町人、盲人、遊里売女、歌舞伎芝居、米穀雑穀産物などを著者武陽隠士なる人物が見聞きしたことを評論した本です。時は十一代将軍徳川家斉の時代、寛政の改革の松平定信が隠居していた。引き締められていた風俗が崩れて、絢爛たる化政文化(文化・文政)が起ころうとする頃が舞台。

国の基が農民と武士、そして米、それに対して町人、商人の台頭、農民と武士は困窮するばかり、でも商人、僧侶、医者、占い師、検校(盲人)などが大名、小名、旗本以上の財をなす。金のあるものはどんどん増やし、ないものはどんどん困窮する。富の偏在が顕著になる。その弊害をひとつ事例を挙げて説明して生きながら、著者独自の見解を述べている。富の平均化、風俗の是正など提言している。
この時代としては大胆な政治批判もいっぱい。でも必ず徳川家康の御世(神君)はどうだったと入れている。そして神君を持ち上げることによって矛先をかわしていたのか?

この本を知った経緯は江戸時代の農民の不良がどうして出てきたか?いう話から、この時代から農村の中でも若者たちの不良がどんどん出てくる。御法度もしっかりしていた時代ならば不良の存在は村全体として決して許されないこと。子の罪は親・親族の罪、また村の罪という連体制になっていたが、この頃にはそれがゆるんで、勘当をしておけば親・村にまで及ばなくなっていた。幕末の討幕運動、尊皇攘夷に走った若者もやっぱり、道楽息子、不良が多かった。

こんな風俗の乱れと富の偏在、幕府の政策の失敗が明治維新に繋がったのだろう。この本を読むと次の時代が見えてくるような気がする。また現代に通じるものが見えてくる。金儲けばかりに走り、物の買い占めは罰せられるけれど、お金を独り占めにするのは誰も咎められない。著者は足らずはいけないが、足りすぎてもいけないと述べている。文字は現在文に改めてあるがやっぱりリズムが違うので読みづらい本です。でも非常に面白い本です。江戸時代が見えてきます。

世の中の汚れの塵をかきあつめ
払い捨つる時をこそ待て

本書より
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「金貸しの流行するは、世に非道の起る基、貧人を拵(こしら)ふる基なり。また月なし銭・日なし銭・損料貸し・烏金(からすがね)などの貸し方あり。これは身薄なる貧人に貸して、殊のほか高利なる者なり。烏金といふは、朝烏の鳴く頃貸し出して、夕晩烏の塒に帰る頃取り返すをいふ。わづか一日の融通に1ヶ月に当る高利を取るなり。損料貸しといふは、衣類・夜具・蒲団・蚊帳など、一日何程といふ損料を極めて貸すなり。貧人はこれを借りて、それを又質に入れ、日々の損料と利の二重に費すなり。当世悪人は右体世に逢ひて金貸しとなり、わづかの金銭を忽ち大金に育て上げ、遣り上げ、善人は時世に後れて金銭を借り、利に利を奪はれて、忽ち貧人となり行くなり」

「今の座頭は、先づ官金と唱へて、貧人に金銭を貸し附け、高利を貪り、或は利足一割二割を取る。また礼金と号して、これまた一割二割を取る。右の礼金・利息とも、貸し附ける時、本金の内にて引き取るなり。また証文は無利足にて、預り金の積りなどにて、もし返済滞りたる時は、右の預かり金の威にて取り立てるなり。その上僅か三ヶ月四か月の期月にて貸し附け、その期月に返済出来兼ぬる時は、また証文を書き替へ、新しき貸金に直し、その度毎に最初の如く礼金を取り、利足・月踊りなどいうて、一箇月を二三箇月となし、また月なし・日なしなどの極めにて、強欲非道に貪るなり。よって借りたる者は、利金・礼金・月踊りに引き落され、一箇年の内には本金の倍増しにも費えるなり。右体強欲非道を行つて、官職に有り付く事を今の風俗となり、当時の座頭の仲間に入り、初め半折懸(はんおりか)けとなるに、金拾両といふ」

 「貸金の滞りたる時、先づ武士ならば、玄関の真中へ上り、声高に口上を述べ、居催促・強催促など云ひて、外聞・外見を構はず、また町家ならば、いかにも近所合壁へ聞ゆるやうに、悪口を並べ罵るなり。さればとて、全体借りたる筋が不義理になりたる上なれば、何程の事にも言葉返しも出来ず、もし云ひ返す時は猶更募り立つ故、何も尤もと会釈するの外なく、たとひ騒ぎたりとも、縛りもならぬもの故、それを見込みて強気に構へ、もしまた少しにても手を付くれば、大騒に申立、身体を傷つけしなど申し懸け、又は身の官職など唱へて、難渋を申し懸くるなり。尤も盲人にも限らず、当世流行の高利貸、日成貸の類はみな右似寄りたる流儀にて、やゝともすれば、人々の持て余すやうに仕懸くるものなり。そのうち目明きは少しは人情にて持ち合ひし所もあるゆゑ、左様にはなく、勘弁の品もあるなり。盲人はいはゆる無面目に仕懸くるなり。借り手は右の外聞外見を厭ひて、或は今日の食糧を欠きても調進いたし、或は老人小児などの衣類を脱ぎとりても返済する事になれり」

・・・また大丸庄右衛門といへる呉服屋の先祖は元来伏見の町人なるが、ある日、両替店の門口へ立ち寄りて見てあれば、金子四十両を丁稚が懐中して他行の体なるを見付け、あとを追い途中にて奪い取り、これを元になして商売を始めたく思ひ、何商売が宜しからんと占家などに問ひしが、不正の元手金ゆゑ身上にありつく事かたしとのこと故、さらばとて同所竹尾の宮といふに参籠断食して祈りければ、夢中の告げなどありて、その暁に丸の内に大の字の付きたる手拭を拾ひ、これより妻の在所尾州名古屋へ参り、手拭及び木綿類の店を出し、だんだん繁盛し、また江戸へ店を出し、京・大坂・伏見へも店を出せしといふ。・・・

「猥りに女の道乱れ、子孫にして或は親を侮り偽り、或は夫をないがしろにし、我儘気随の振廻ひ、常の風俗となれり。今軽き裏店(うらだな)のもの、その日稼ぎの者どもの体を見るに、親は辛き渡世を送るに、娘は髪化粧よき衣類を著て、遊芸または男狂ひをなし、また夫は未明より草履草鞋にて棒手(ぼて)振りなどの稼業に出るに、妻は夫の留守を幸ひに、近所合壁の女房同志寄り集まり、己が夫を不甲斐性ものに申しなし、互ひに身の蕩楽なる事を咄し合ひ、また紋かるた、・めくりなどいふ小博打をいたし、或は若き男を相手に酒を給べ、或は芝居見物そのほか遊山物参り等に同道いたし、雑司ヶ谷・堀之内・目黒・亀井戸・王子・深川・隅田川・梅若などへ参り、またこの道筋、近来料理茶屋・水茶屋の類沢山に出来たる故、右等の所へ立ち入り、又は二階などへ上り金銭を費して緩々休息し、また晩に及んで夫の帰りし時、終日の労をも厭ひ遣らず、却つて水を汲ませ、煮焚きを致させ、夫を誑かして使ふを手柄とし、女房は主人の如く、夫は下人の如くなり。邂逅(たまさか)密夫などのなきは、その貞実を恩にきせて夫に嵩り、これまた兎にも角にも気随我儘をなすなり。
 今大小名の閨門を始め、女の気随我儘も奢り頂上し、下々卑賤の末々に行くに随ひ、右の如く夫婦女子の道乱れしなり。この風俗また国々在々に押し移り、父母を粗略にして女房を大切に取扱ひ、親類を疎遠にして縁者なるを懇切にする事になれり。これ世の信義を失ひ、淫犯の増長せしなり」