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武家の古都・鎌倉の文化財

書名:武家の古都・鎌倉の文化財
監修:五味 文彦
発行所:角川学芸出版
発行年月日:2011/3/25
ページ:255頁
定価:2900円+税

江戸時代の初め、「沢庵和尚」が期待を持って禅宗の聖地鎌倉にやって来たとき、あまりにも寂れてしまっている鎌倉に失望したとか。400年の歳月に置いておかれた鎌倉の地、その後徳川幕府が再建した後がみられる。この本は世界遺産登録を目指して再度調査したことを踏まえて古都鎌倉を武家政権の成立、武士を反映した都市の構造、武家文化などをまとめてあって鎌倉のことがよく分かる本です。

「攻めるに難く、守るに易い」要害の地というのは鎌倉を示す言葉と常識的に考えられていた。これは同時代の「吾妻鏡」に出ていることで、誰も疑っていなかった。そこで世界遺産登録の目玉として「要塞都市鎌倉」ということにして再調査をしたそうですが、鎌倉が要塞とよばれるようなものを作るようになったのは、元寇以降のことだとか?北条高時の時にあっけなく新田義貞に鎌倉まで侵入されてしまっている。

また頼朝は何故鎌倉に都を作ったのか?未だによく分かっていない。有力御家人三浦、和田、畠山氏などの推薦、父義朝の領地があったから?平野部は殆どなく谷戸ばかりで3万人が住めるか住めないところ。非常に狭い地域です。鎌倉時代はまだまだよく分かっていないことが一杯ということも判ります。
将軍と執権、北条の時代でも一応将軍(有力貴族藤原氏など、親王)もいた。御家人と将軍(執権)との関係、有力御家人は見方でも在り、討伐の対象でもあった。

また他の都市などと違って鎌倉は遺跡の発掘がなかなか出来ないところで、未だに幕府があった場所(何回か移転している)もよく分かっていない。極楽寺と称名寺が有力な寺院だったのは和賀江、六浦の湊を支配していたから、禅宗が鎌倉で発展したのは中国の宋が元に滅ぼされて、禅僧が難民として逃げてきたので優秀な僧が集まった。

鎌倉のことを知るには良くまとまった本です。

「武家の古都・鎌倉」を構成した文化財 - 神奈川県ホームページ
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f417245/p442593.html