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ぶらり金沢散歩 歴史・伝統・民話を歩く

書名:ぶらり金沢散歩 歴史・伝統・民話を歩く
著者:楠山 永雄
発行所:金沢郷戸史愛好会
発行年月日:2003/10/28
ページ:228頁
定価:1600円+税

横浜市金沢区は横浜市市域でも歴史・伝統・民話の多い地域で、鎌倉時代からの遺跡も残っているところです。その金沢を案内したちょっと詳しいガイドブックです。
「徒然草」の著者・兼好法師が、金沢を2回訪れている。「昔、住んだことのある金沢の家」と書いてある「兼好法師家集」その家は?

長浜千軒が大津波で海没(1311年 応長元年)「長浜千軒」といわれた漁村が、大津波によって一夜にして海中へ呑込まれた、という伝承がある。今の並木地区に長浜があった。そこには松並木があった。並木の町名の由来となっている。富岡村を津波から守ったのが「浪除け八幡」だった。これが富岡八幡宮、徳川家光が深川を埋め立て工事をしていたときに高波に邪魔され工事が滞った時、この富岡八幡宮に祈って、分霊を祭ったのが深川富岡八幡宮。

泥亀新田と泥亀の牡丹(どろかめではなく、でいきと読む)
湯島聖堂の儒官・永島祐伯(号・泥亀)は、晩年を野島に移り住んだ。やがて新田開発に乗り出し、9代・200年にわたり干拓事業に取り組む。塩田として利用されている。幕末近くになるまで埋め立ては難航を極め、直ぐに水があふれ蓮池になってしまう。蓮の名所でもあり、明治時代になると牡丹の名所になる。

金沢山称名寺(かねたくさんしょうみょうじ)なかなか目出度い名前ですね
実時が、金沢に別荘を構えたのは正嘉 2年(1258)頃。亡母の七回忌に建てた小さな持仏堂から、次第に七堂伽藍が建ち並ぶ大寺院に発展していく。それから約300年後寺運は衰退し、江戸時代にはかなり酷いことに。沢庵和尚(沢庵宗彭)が禅の本場鎌倉を期待を込めて訪れている。そのとき書いた「鎌倉巡礼記」という書物に「本堂一宇(宇は軒である、本堂一軒)があったが、諸堂はみな跡ばかりであった。五重塔の一重だけが残っていた。」と記してある。がっかりした様子が良く分かる本です。(沢庵和尚全集 国会図書館ライブラリ)

「金沢八景」の起り
中国の心越禅師が、能見堂からの勝景を瀟湘八景(しょうしょうはっけい)になぞらえて八首の漢詩に詠んだ。以来、小泉夜雨・平潟落雁・野島夕照など金沢の地名を冠した「金沢八景」が成立した。安藤広重の金沢八景図他多数の八景図が残っている。

富岡は超一級の避暑地
富岡海岸は日本の海水浴発祥の地。明治初年、中央政界の大物たちが次々と富岡に別荘を構え、「富岡で閣議が開ける」とまで言われた。風光明媚なところでペリーが浦賀に来たときも小柴沖で測量とともに、気に入った景色と伝わる。

史跡・朝比奈切通し
鎌倉は、海はあるが、良港を持たないところで、鎌倉時代急激に人口が増え物資などを調達する必要に迫られた。隣の六浦港は良港で鎌倉の外港として利用するためにその物資輸送の道として開かれた。朝比奈三郎義秀の名前が残るが、幕府に謀反を起こしたとして滅ぼされた朝比奈の冠しているちょっと不思議?。六浦湾は塩田があり、朝比奈切通しは六浦から鎌倉への塩の道でもあった。

六浦藩の大名屋敷
横浜市域で唯一の大名米倉丹後守の陣屋跡が金沢八景駅から3分のところにある。(江戸時代にが藩は無かった。いずれの地方でも。明治の廃藩置県の前の短い期間、藩と呼ぶことがあった。したがって江戸時代に会津藩、彦根藩、小田原藩とは呼ばれていなかった。米倉丹後守家中のように殿様の苗字と○○の守、その家中で。)したがって六浦藩も同様、この地が金沢だったので武州金沢藩と呼ばれることもあるが、加賀金沢と同名回避のため六浦藩と決められた。米倉丹後守は1万二千石の大名でこの六浦地域の領地は1500石、米倉氏は甲斐武田家家臣だったが武田氏が滅んで家康の家臣に300石ほどの旗本だったが、徳川綱吉の時代、犬小屋奉行を務め、加増、また柳沢吉保の子を養子に、1万5000石の大名になった。3000石は弟に。


などなど興味深い話が一杯です。これを読んで金沢の街を訪れて見るのも一興かもしれない。

ぶらり金沢散歩道
http://www.asahi-net.or.jp/~dc4k-ksym/3brakana/mokuji.html?75,20