書名:壁に耳あり 男性自身シリーズ
著者:山口 瞳
発行所:新潮社
発行年月日:1969/6/30
ページ:273頁
定価:750円+税
山口瞳、知らない人が多くなったと思う。サントリーの「トリスを飲んでハワイに行こう」とか「居酒屋兆次」などの作品がある。この本は昭和44年発行のエッセー集(週刊新潮に連載)です。当時の風潮を反映して学生運動などの話題も、当時著者は40代持ち時間が無くなってきている50歳まで10年みみたくなってきた焦りなども正直に書いている。
この人の考えの基礎に自分にとって好きか嫌いかで考えているところがある。したがってハッキリしていて心地よい。しかし本当かな?と読者を試している所がある。また男、女は区別して、何でも平等という思想からはほど遠い。でもそれの方が実態を反映しているのかも。女が男のまねをすることはない。「義理と人情は貧乏の中からしか生まれない。」義理と人情はなくなりつつありますね。
世相を反映したエッセーを時を隔てて読むのもまた楽しい。
本書より
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(詐欺)
騙されるというのは、こっちにも欲があるから騙されるのである。
(言葉)
私ごとき者にも、子供の教育をどうしたらいいのかという質問が寄せられることがある。子供が悪くてどうしたらよいかわからないという相談をうけることがある。私は、いつでも、こう答える。
「それは言葉です。いい言葉をつかわせるようにしなさい」
(略)
私には、そのほかのことはわからない。それでいいと思っている。猫っ可愛がりが一番いけない。わるい言葉をつかったときには、すぐ叱らないといけない。
そのかわり、子供がいたずらしても、失策をしても叱らない。極論するならば、高校生になったら酒を飲んでも煙草を吸ってもかまわぬと思う。暴力教室をなくす近道はこれだと思う。そのかわり、親や教師に対して失敬な言葉づかいをしたときは、ぶん殴るべきだと思う。
私は、乱暴で生意気な言葉をつかう子供たちを「現代っ子」などとおだてる教育者や、それを自慢したりする親たちがいるという風潮に腹がたってならぬのである。
(淋しい)
私は、男が男らしく生きるために第一に心がけねばならぬことは「主人持ち」にならぬということだと思う。男の主人は、彼自身でなくてはならぬ。「主人持ち」というのは文字通り、女房ことである。
第二は、筋を通すことではないか。
第三は、物を値切って買うなということである。値切るのは女の役目である。物を正当に評価することだと思う。
そんな男らしい男を観察すると、
彼等を支えているものは、一種の「無常観」といったものではないかと思われる。
(理想)
田舎者というのは、ガツガツしている男、目先のことばかり考えている男、世のため人のためではなく「てめえのために」だけを考える男という意味である。
(外国人)
日本と外国の差異は、一にかかって、日本には国境がないというところから生じてくる。日本には民族問題がない。宗教問題がない。階級がない。
従って、世界観やら自分の考えやら頑固やらが生じにくいところがある。
(かにかくに)
私小説を書くということは、すでに他人を傷つけることである。
(ハナウタ)
未来は漠然と無限にひろがっているのではなくて、確実に、むこう側に壁があるのである。そのことを認識しなければいけない。
逆に、むこう側から計算しなければならないと思うのである。そう思って、桜も月も紅葉も大事にしないといけない。見定めておかないといけない。
そういうと日常の生活が固苦しく息づまるようになると思われるかもしれないが、決してそうではない。
あと七年だと思ってしまうと、厭なことやりたくない。厭なものは見たくない。厭な奴とはつきあいたくないと考えるようになるから、かえって生活は安気になる。のんびりする。
(弱きを挫く)
弱い者に確実に勝つ、あるいは弱い者に勝つことに情熱をもやすふうでないと勝負の世界はつとまらないそうだ。そのためには、常に、弱いと思われて男を研究しなければならないという。逆に、いったん追い越されたら、追いつけるものではない。
弱きを挫くという言葉は、強きを挫くよりも遙かに真実感がある。現実的に有効だと思われる。
(住居)
御茶ノ水駅を出てすぐ左側の神田川の縁に何軒かの家が建っている。電車から見ると、この家を裏側から眺めることになる。さしさわりがあったら許していただきたいのだけれど、私はそこを通るたびに、それを見るたびに、ああ、あれが人間の住居なのだなと思うのである。ということは、ああいう所に住んでみたいと思うということである。
おそらく、表側から見ると、すなわち都電通り見ると、かなり堅固な、普通の二階建屋なのだろう。裏から見ると、それが三階建にも四階建にも、また五階建にも見える。上にも下にも継ぎ足していったものだろう。折り重なって建っているように見える。