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武州金沢藩の流転と終焉

書名:武州金沢藩の流転と終焉
   横浜市域唯一の大名米倉家
著者:守谷 欽一
発行所:
発行年月日:2007/2/10
ページ:304頁
定価:非売品

横浜市域唯一の大名米倉家(1722年 - 1869年)譜代大名1万2千石、いわゆる城持ち大名(3万石以上)ではなく、金沢陣屋(金沢八景駅近く)を置いた。先祖はは武田氏家臣で甲斐国から出る。武田氏が滅んで、徳川家康の家臣になり、関ヶ原の合戦などにも参加する。200石~700石ほどの旗本。初代 忠仰(ただすけ)は柳沢吉保の子で米倉家に養子に入っている。三代 昌晴(まさはる)の時に若年寄にまで出世をしている。中野の犬小屋作事奉行を務めたりして綱吉にも気に入られている。柳沢家(15万石)と同郷の出身であるが、出世はしたがスピードが違った。(でも出世する機会の少ない元禄時代としては破格の出世)
本拠を金沢を置いたが領地は 武蔵国(久良岐郡のうち - 4村、埼玉郡のうち - 2村)、相模国(淘綾郡のうち - 1村、大住郡のうち - 9村)、下野国(都賀郡のうち - 6村、安蘇郡のうち - 6村)にあり、久良岐郡(金沢領)は1500石となっていた。

この米倉家の歴史を詳細に調査して残った資料をまとめた本です。武州金沢藩(藩という名称が公式に用いられたのは明治維新以降、1868年からです。金沢藩は判りやすくするための公称)の概要を知るには良い本です。また今まで探したところ一番良くまとまっている本だと思います。

米倉家は将軍に近いところの役についており,徳川慶喜の上洛、鳥羽伏見の戦いのときに大坂から一緒に逃げ帰ったり、大坂勤番を勤めたり、新政府が上京してくるときは比較的早く恭順して、東海道戸塚、保土ケ谷、神奈川などの警備についたり、ペルー来航時には海防の警備に付いたりと藩士100名程度の小藩としてはきつい仕事、費用が掛かっていたのではないかと思われる。維新前後のことについては「慶応四年の目付の公用日記」萩原家文書に詳しい。昌言(まさこと)は幕臣から新政府の知事と激変の時代を生きた人、米倉家は明治になって華族(子爵)として過ごしたが、昭和になって跡継ぎが出来ず、子爵を返上している。
この本で注目すべき処は米倉家には養子が多く入っていて歴代で60%ほどは養子、そして婚姻も士農工商の区別が厳しかった時代にも関わらず、3割近くは農民(名主など)との縁組みを藩士の上下に関わらず行っている。これが金沢藩だけの話か?他藩でも同様だったのかちょっと興味あるところです。この本は考察などが少なく出来るだけ事実と思われるものを律儀に年表に沿って綴ってあるので信頼性も高いのではないかと思います。事実の羅列に何を感じるか、読者次第ということか?

萩原家文書
八代 昌言(まさこと)の時代、「慶応四年の目付の公用日記」武州金沢藩士、萩原家に残された文書である。幕末期の当主、萩原唯右衛門の慶応四年の役職は「金沢御用人方助勤」

米倉家(1722年 - 1869年)
譜代 陣屋 1万2千石
初代 忠仰(ただすけ)〔従五位下・主計頭〕
二代 里矩(さとなり)
三代 昌晴(まさはる)〔従五位下・丹後守〕
四代 昌賢(まさかた)〔従五位下・長門守〕
五代 昌由(まさよし)〔従五位下・丹後守〕
六代 昌俊(まさのり)〔従五位下・丹後守〕
七代 昌寿(まさなが)〔従五位下・丹後守〕
八代 昌言(まさこと)〔従五位下・丹後守〕