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無私の日本人

書名:無私の日本人
著者:磯田 道史
発行所:文藝春秋
発行年月日:2012/10/25
ページ:333頁
定価:1500円+税

図書館に予約していた本が漸く届いた。人気が高くなかなか回ってこなかった。この本は歴史(古文書)がら著者が発見した素晴らしい人々、郷里の崩壊を救った穀田屋十三郎、市井の儒学者・中根東里、歌人歌人・大田垣蓮月の3人の評伝です。それぞれ素晴らしい人達ですが、大田垣蓮月は圧巻だと思います。次に儒学者・中根東里。アグロサクソンが人に勝つ、金儲けに狂想する時代、現代の日本もその渦に巻き込まれて出世、金持ち、権威を持つことに価値をもっている時代。そんな人々に大きな警告を与えてくる。そんな生き方に極貧でもお金持ちでも幸せに生きていける。そんな今とは違った普遍の価値観があることを教えてくれる。

穀田屋十三郎は「殿、利息でござる!」の原作。無私の日本人というとこればかり宣伝されているが、簡単に言うと奥州街道の宿場「吉岡宿」(宮城県黒川郡大和町吉岡)は極貧の宿場町で人々が段々減ってきて宿の存続がおぼつかない位疲弊している。その現状に問題意識を描いた穀田屋十三郎他8人が宿の永代存続を願って奇想天外な策を企画した。それは宿場仲間で資金を集めて伊達藩に貸し付けて年利1割の利息を毎年貰って、それを吉岡宿の人々に配るという。

「吉岡宿」は仙台伊達藩の家臣但木家1500石の所領(所拝領の地という)、伊達藩は他の藩とは違って家臣に所拝領の地を与え運営を任せている形式。したがって参勤交代よろしく、家臣は仙台に参勤していた。宿場は人馬の供出が欠かせないこれが苛酷な負担となっている。所拝領の地は伊達藩からの援助は一切無い。1500石程度の但木家では支援保護が出来る予算規模でない。

しわ寄せは穀田屋十三郎他、吉岡宿に掛かってくる。穀田屋十三郎は同志をあつめて一家離散を覚悟で大金を集め、それを伊達藩に貸し付けて、その利息で、滅びようとする郷里を救おうと奔走する物語。その同志には無私(自分の為はどこにもない)そのときのやり取りは國恩記という本に書かれている。また子孫にこのことを自慢げに広言するなと遺言を残している。

宿場「吉岡宿」(宮城県黒川郡大和町吉岡)は宮城NECが近くにあり、何度も出張で行ったところ。確か仙台地下鉄早乙女駅からバスで30分位のところ。土地勘はあったが、こんな話ははじめて知った。穀田屋十三郎の素晴らしさは伝わってくるが、それよりは仙台伊達藩のお上意識、民のことは全く考えていない。西日本のように民(商人)が活躍する場を与えていない政治体勢の問題点が浮き彫りにされているように思う。お上従順な人々を延々と育ててきたそんな暗いイメージが湧いてくる。

國恩記
http://www7b.biglobe.ne.jp/~ryori-nocty/kokuonki.htm
國恩記の釈文(読みルビつき)が掲載されている。また解釈も付いているので「無私の日本人」と比較して読んでも面白いかもしれない。

次に中根東里という人、殆ど知らないのではないかと思う。儒者ですが残されて著作は殆どない人。江戸時代を通じて空前絶後の詩才の持ち主ながら、栄達を求めず、極貧のうちに村儒者として死す。この生き方に一つの大きなヒントが見えてくる。この本の中に「本は生き方の方向を指さす。」だけのもの。その指さす方向に向かうか向かわないは自分しだい。自分の為、自分の為という発想はどこにも。いっけん関連のない事柄でも全て繋がっているその中の自分も繋がっている。自他を超えた発想。これは普遍的な価値観で大きな器を感じる。

大田垣蓮月
どんぐり焼けと呼ばれた京都最大の大火の後、その復興の為に京都に来ていたとき津藩の家老(藤堂家)が花街の女に孕ませた子として生まれたとされるが詳細は不明。知恩院の貧乏な寺侍(大田垣当時は山崎姓)の養女として育てられる。少女時代丹波亀山(形原松平氏)の御殿女中として10年ほど仕えた。その後寺侍(大田垣)の家に戻り、養子と結婚するが夫は離婚、死別。その間出来た子供は全て亡くなってしまう。もう一度結婚して幸福に暮らしていたが夫が若死にしてしまう。そのとき子供が2人授かる。その後老父とともに出家して知恩院の塔頭に住む。でも子供達は次々亡くなり、老父も亡くなってしまう。知恩院の塔頭には住めなくなってしまう。

蓮月は絶世の美女、家庭に恵まれず、尼僧として京都郊外(現京都大学構内)を転々と引っ越しを繰り返す。秀才兼備で何事にも優れた才能を持っていた。しかし尼僧になってから生活の糧に急須(お茶)を土を捏ねて作る。素人然とした愚作、それに和歌を書き付けて売って糧を得ていた。一番苦手な焼き物作りが生活を支えていた。蓮月焼きとして数万点は作られたようです。

大田垣蓮月のことはふるさと亀岡(丹波亀山)のことでもあり、一応は知っていました。がより詳しく知りました。歌人と言われているが、歌人の域では収まらない大きな人です。富岡鉄斎の師匠(育てた)であったり幕末の動乱期、維新の志士たちなどの人々も大田垣蓮月を尋ねてきている。アメリカの黒船が来たと世間が騒然としていた時期、アメリカは敵と決めつけてはいけないと次のような和歌を詠っている。

ふりむくとも 春のあめりか 閑にて 世のうるおひに ならんとすらん

鳥羽伏見の戦いで官軍が「勝った勝った」と騒いでいるとき西鄕隆盛宛に短冊を送っている。

あだみかた 勝つも負くるも哀れなり 同じ御国の人と思へば

色々な不幸に会いながら純真な心を失わず、決して絶望しないあるがままの生きた方を貫いた女性です。読後爽やかな感動が残る蓮月の評伝です。この本は日本の良い所を忘れていた人々に読んで欲しい本ですね。

本書より
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やどかさぬ人のつらさをなさけにて おぼろ月夜の花の下ふし
願わくはのちの蓮の花の上に くもらぬ月をみるよしもがな(蓮月 辞世の句)

金は、うちに残らぬがよろしい。入るだけ出るのがめでたい
自他平等の修業をしてみたい。自分と他人の違いなどはありはせぬ。そう思うて暮らすのです。閻魔王よりご沙汰がくるまで、心やすく暮らすには物にこだわらぬのが一番

大ヒット映画「武士の家計簿」に続き、気鋭の歴史家が描く日本人の誇るべき美徳。 ある老人の執念がこの本を書かせた 『無私の日本人』 (磯田道史 著)
http://hon.bunshun.jp/articles/-/1228