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京都ぎらい

書名:京都ぎらい
著者:井上 章一
発行所:朝日新聞出版
発行年月日:2015/9/30
ページ:221頁
定価:700円+税

この本はベストセラーになった。昨年9月に図書館に申し込んでおいて、漸く手にすることが出来た。今の京都市は、山城国の葛野郡(かどのぐん)・愛宕郡(おたぎぐん)・紀伊郡(きいぐん)の全域、山城国の宇治郡(うじぐん)・乙訓郡(おとくにぐん)と丹波国桑田郡(くわだぐん)の一部、さらには山城国の久世郡(くせぐん)・綴喜郡(つづきぐん)にもくい込んでいる地域を指しているが、この本の京都は狭義の洛中を指す。洛中とは豊臣秀吉の時代御土居で囲まれた地域を言う。

著者は嵯峨野生まれ、宇治市に住んでいる。著者は京都人とは言わない。地元の事が分かっている人にはわかりやすい本ですが、部外者には何かぴんとこないこともいろいろ出てくる本です。同じ京都市の中でも洛中とそれ以外の地域の差別、いけずについて書いている。東京に出てきて京都出身ですというとき、洛外の人間はちょっとためらってしまう。そんな心のひだが書かれている。

今の京都のお寺は江戸時代徳川家康から家光3代の見栄によって大伽藍、広大な敷地、そして全国の信者を組織して上納金を集める仕組みが作られた。これによって寺院の維持管理が継続できてきた。ところが明治になってそんな仕組みが壊れて、明治10年代に嵐山の桜が荒廃してしまった。という逸話もあるが、どんどん荒廃していった。そして1960年代には寺社の拝観料を取る制度(税金なし)で1970年代頃から各寺院は建物、庭の修復が行えるようになった。子供頃のお寺はどこもみすぼらしかった。

全国の花柳界も廃れつつあるのに何故京都の祇園、先斗町、上七軒など今も続いているのか?袈裟を着た坊主が舞子、芸技と戯れる姿に違和感を感じない街。東京、その他ではかなり違和感を抱いてしまう。花街は僧侶によって維持できている。

七福神(ひちふくじん)というように「七をひち」という呼び方はもう文部省の漢字の読みからは消されてしまった。上七軒(かみひちけん)、七条(ひっちょう)などなど。子供の頃、七(ひち)だった。教科書は「しち」だったかもしれないけれど、周りの大人は「ひち」と呼んでいた。これは京都、大阪、滋賀あたりの方言みたいです。

京都、京都人の微妙な機微が書かれている本で、京都に対してこどもの頃「いけず」された意趣返しという感もする本です。著者は私より4,5歳下なのでほぼ同時代のことがよく理解できる。嵯峨、太秦あたりの百姓が人が1970年代頃、土地を売ってアパート経営などを行って、田圃は亀岡に買いに来るという事があった。その時代までは農業地帯が広がる地域だった嵯峨、太秦。洛中の人からは同じ京都人とは扱って貰えなかった。著者の恨みも漂ってくる「京都ぎらい」です。

天龍寺の事を書いたところに非常にユニークな説がありました。天龍寺は南朝の後醍醐天皇怨霊を鎮めるために足利尊氏、夢窓疎石が建てた一大拠点。この不運して悔しい思いで死んでいった人の「怨霊を鎮める」という事が室町までは残っていた。豊臣以降は自分が神になる。豊国神社、東照宮。そして明治維新になって勝った仲間の御霊をまつる(靖国神社)と自分、仲間だけ祀る。こんな風に変わってきている。梅原猛は「隠された十字架」で聖徳太子一族の怨霊を祀るために法隆寺を藤原氏が建てたという説を唱えているが、奈良時代怨霊信仰があったか?疑問ですが視点は良いところだと思う。

北条時宗も蒙古襲来(文永の役、弘安の役)で亡くなった味方、敵を問わず御霊を鎮めるために「鎌倉に円覚寺」を創っている。靖国神社問題を考えるときにヒントになるのでは?

昔は科学も発達していなかったこともあって、勝ち残ってきた者も無残に散った人々の怨霊に恐れてきた。またただ運が良かった。だまし討ちにしたり手段を選ばず勝ってきた。その後悔もあったのでは?ところが薩長の明治維新の頃には自我が目覚めたのか?自分たち同士だけに目が向いてきた。仲間だった江藤新平、西郷隆盛も鎮魂はしていない。スターリン、毛沢東を思い浮かべる。心が貧しくなってきた。そんな気がします。

200ページちょっとの短文ですが、なかなか面白い。ガイドブックとは全く違った切り口で語っている。

ほめられたら要注意!? 京都人の「ウラとオモテ」を楽しむ
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48198