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緒方洪庵

書名:緒方洪庵
著者:梅溪 昇
発行所:吉川弘文館
発行年月日:2016/2/20
ページ:293頁
定価:2,300 円+税

吉川弘文館の人物叢書(日本歴史学会編集)シリーズは比較的史実に近い内容で、伝記小説などと比べるとき便利なシリーズです。ちょっと難しい本ですが。

来年は明治150年、明治維新前後のことにちょっと興味を持って調べています。その中で幕末・明治に活躍した人々に多くの影響を与えている緒方洪庵に注目してみました。

日本では明治5年12月2日(1872年12月31日)まで太陰太陽暦(以下、旧暦)を採用していたため、明治元年はさかのぼって数えている。グレゴリオ暦の場合は
旧暦明治元年1月1日から11月18日まで - 1868年(1月25日から12月31日まで)
旧暦明治元年11月19日から12月30日まで - 1869年(1月1日から2月10日まで)

緒方洪庵は備中足守藩(岡山県)の貧しい下級武士の子として生まれ、中天游、坪井信道、宇田川榛斎に師事して蘭方医としての理論実践、適塾の経営人材の育成など多岐に渡っています。特に医学だけで無く、数学、化学、物理、儒学などにも優れています。当時の蘭方医というのは医学だけではなく広範囲な分野を学んでいたようです。医学の理論書の翻訳をするとすぐに配布して誰でも読める・学べるように普及に努めた。種痘の方法なども普及所を作って推進している。(自分だけの学問に閉じこもらず、判ったことは公開している)

幕末を代表する教育者として、吉田松陰と並び証せられるが、吉田松陰の言うだけの人とは違って実践・理論においても格段に優れた人だと思う。何故、松陰が神になるのか?明治の異常な熱気だったのか?
適塾からは600人(名簿が残っている)以上(1000人とも)の人材を輩出している。橋本左内(福井藩士)高松凌雲(幕府奧医師)大村益次郎(長州出身の軍人)福沢諭吉(慶応義塾の創設者)大鳥圭介(幕臣、外交官)佐野常民(日本赤十字社の創設者)長与専斎(文部省医務局長、東京医学校校長)手塚良庵(手塚治虫の曽祖父)幕末明治の著名な人物を育てています。故郷に帰って後進を指導しつつ、近代日本の建設に活躍した者が多かった。

ベルリン大学フーフェランド教授の「内科書扶氏経験遺訓」に感激し、30巻に及ぶ翻訳書を書き上げる。その抄訳を“医師の義務“を愛弟子に伝えるべく12か条の医戒を著わした。世に名高い「扶氏医戒之略」であり、今でも十分通用する医戒です。緒方洪庵の精神的骨格はここに集約されています。特に最初の1,2条は医者をそれぞれの立場に変えて読むと「やるべき事の本質」が見えてくると思う。

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扶氏医戒之略
一、医の世に生活するは人の為のみ、おのれがためにあらずということを其業の本旨とす。安逸を思はず、名利を顧みず、唯おのれをすてて人を救はんことを希ふべし。人の生命を保全し、人の疾病を復治し、人の患苦を寛解するの外他事あるものにあらず。

一、病者に対しては唯病者を見るべし。貴賤貧富を顧ることなかれ。長者一握の黄金を以て貧士双眼の感涙に比するに、其心に得るところ如何ぞや。深く之を思ふべし。

一、其術を行ふに当ては病者を以て正鵠とすべし。決して弓矢となすことなかれ。固執に僻せず、漫試を好まず、謹慎して、眇看細密ならんことをおもふべし。

一、学術を研精するの外、尚言行に意を用いて病者に信任せられんことを求むべし。然りといへども、時様の服飾を用ひ、詭誕の奇説を唱へて、聞達を求むるは大に恥るところなり。

一、毎日夜間に方て更に昼間の病按を再考し、詳に筆記するを課定とすべし。積て一書を成せば、自己の為にも病者のためにも広大の裨益あり。

一、病者を訪ふは、疎漏の数診に足を労せんより、寧一診に心を労して細密ならんことを要す。然れども自尊大にして屡々診察することを欲せざるは甚だ悪むべきなり。

一、不治の病者も仍其患苦を寛解し、其生命を保全せんことを求むるは、医の職務なり。棄てて省みざるは人道に反す。たとひ救ふこと能はざるも、之を慰するは仁術なり。片時も其命を延べんことを思ふべし。決して其不起を告ぐべからず。言語容姿みな意を用ひて、之を悟らしむることなかれ。

一、病者の費用少なからんことを思ふべし。命を与ふとも、其命を繋ぐの資を奪はば、亦何の益かあらん。貧民に於ては茲に斟酌なくんばあらず。

一、世間に対して衆人の好意を得んことを要すべし。学術卓絶すとも、言行厳格なりとも、斎民の信を得ざれば、其徳を施すによしなし。周く俗情に通ぜざるべからず。殊に医は人の身命を依托し、赤裸を露呈し、最密の禁秘をも白し、最辱の懺悔をも状せざること能はざる所なり。常に篤実温厚を旨として、多言ならず、沈黙ならんことを主とすべし。博徒、酒客、好色、貪利の名なからんことは素より論を俟ず。

一、同業の人に対しては之を敬し、之を愛すべし。たとひしかること能はざるも、勉めて忍ばんことを要すべし。決して他医を議することなかれ。人の短をいうは、聖賢の堅く戒むる所なり。彼が過を挙ぐるは、小人の凶徳なり。人は唯一朝の過を議せられて、おのれ生涯の徳を損す。其徳失如何ぞや。各医自家の流有て、又自得の法あり。漫に之を論ずべからず。老医は敬重すべし。少輩は親愛すべし。人もし前医の得失を問ふことあらば、勉めて之を得に帰すべく、其治法の当否は現病を認めざるに辞すべし。

一、治療の商議は会同少なからんことを要す。多きも三人に過ぐべからず。殊によく其人を択ぶべし。只管病者の安全を意として、他事を顧みず、決して争議に及ぶことなかれ。

一、病者曽て依托せる医を舎て、窃に他医に商ることありとも、漫りに其謀に与かるべからず。先其医に告げて、其説を聞くにあらざれば、従事することなかれ。然りといへども、実に其誤治なることを知て、之を外視するは亦医の任にあらず。殊に危険の病に在ては遅疑することあることなかれ。


 右件十二章は扶氏遺訓巻末に附する所の医戒の大要を抄訳せるなり。書して二三子に示し、亦以て自警と云爾。


     安政丁巳春正月
                             公 裁 誌