書名:江戸を造った男
著者:伊東 潤
発行所:朝日新聞出版
発行年月日:2016/9/30
ページ:499頁
定価:1800円+税
河村瑞賢という人のことは豪商という位しか知らなかった。元禄時代の紀伊國屋などの材木問屋などと同類に見ていたが、全然違う。
伊勢の貧農に生まれ、江戸に出て苦労の末に口入れ屋、材木商を営む。明暦の大火の折りに即、木曽上松に行き材木を買い占めて莫大な利益を得る。でも帰りに尾張の米を購入してきて江戸の人々にお救い所で粥として配布した。明暦の大火で頭を痛めていた保科正之は江戸の大改造を企画する。
江戸城の天守閣の再建も不要なものということでしなかった。また江戸城の周辺の大名・旗本など移転させて日除け地、広小路など造っていく。その保科正之に、直訴(明暦の大火で亡くなった人々の遺体の始末)した河村屋七兵衛は保科正之におまえが遣れと言われて、自ら行った。その事によって保科正之に見込まれて食糧不足に悩む巨大都市・江戸の暮らしを潤すため、日本列島の海運航路の開発を幕府より命じられる。阿武隈川の開削、東北から江戸への海運航路特に上総経由江戸の危険航路を下田(三浦)経由で江戸に安全につく工夫をしている。千葉沖は今でも危険な場所(榎本武揚の海軍の遭難、ぼりばあ丸)です。
その後、酒田から日本海を南下して長州の赤間関を経由して大坂、そして伊勢、志摩、下田、江戸航路の開発。北前船はあったが、これだけの長距離航路とその運営体制はなかった。
その後越後高田藩の新田開発、銀山開発、大坂淀川治水工事、幕府の数々の公共事業に関わるようになり、江戸という時代を縁の下から支えるインフラ構築事業に邁進していく。河村瑞賢という男の波瀾万丈の生涯を描いた力作です。新井白石をして、「天下に並ぶものがいない富商」と唸らせた男。商人は利ために働く、それも自分の。でもこの人は決して自分のための金儲けには走らなかった。当然紀伊国屋文左衛門のように吉原で大盤振る舞いもしていない。でも仕事の段取りをつけ、人を配置して、ネックとなる問題点などを解決しながら成功に導く。経験のあるなし関係なしに初めての仕事にも果敢に挑戦していく。晩年には武士取り立てらたが、自分の出世のためには働かなかった人です。でもこの人の事を書いた本は非常に少ない。鎌倉建長寺に「川村瑞賢顕彰之碑」がある。
江戸を造った男 | 伊東潤公式サイト
http://itojun.corkagency.com/works/edowo/
国立国会図書館デジタルコレクション - 奥羽海運記 ; 畿内治河記
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536833
河村瑞賢を書いた関連本
新井白石の『奥羽海運記』や『畿内治河記』他「本朝河功略記」「疏淪提要」「関東水利考」「奥羽漕運考」「漕政議略」「北陸道巡見記」「河渠志稿」
「川村瑞賢顕彰之碑」。
「運業界の祖治河事業の先駆者河村瑞賢の墓石は元禄十二年獅子通顕により建立され、更に通顕の墓石は享保六年義篤によって建立されたものであり二百有余年の長い間風霜に晒されて建長寺境内塔頭金剛院跡に眠りつづけていました。自然の磨損の甚だしい所偶偶関東大震災によつて墓石は倒れ墳墓は破損されてしまいました。その惨状を見、傷心の情深き菅原時保管長猊下を中心に官財界の有志相い集い「河村瑞賢墳墓保存会」を設立し、昭和九年九月墓石等の保存工事、追憶碑を建立して河村瑞賢の優れた業績を永く後世に伝えるべくご努力なされましたが、時は流れ、国家社会の現状は変遷し更めて海運・治河事業の重要性が叫ばれて参りました。私達関係者は過去の偉大なる河村瑞賢の業績に憶いをはせ平成五年十月「河村瑞賢墳墓平成保存会」を設立し、平成六年六月十六日毎歳瑞賢忌を期して吉田正道管長猊下を大導師に拝請し、鍬入れ式等を挙行いたし境内整備等につとめて参りました。茲にその意志を確認し、永く保存に関する諸行事等をいたし祟敬顕揚の念を深くするものである。
平成七年六月十六日
河村瑞賢墳墓平成保存会 」