書名:誰も知らない 世界と日本のまちがい
自由と国家と資本主義
著者:松岡 正剛
発行所:春秋社
発行年月日:2007/12/20
ページ:467頁
定価:1800円+ 税
松岡正剛というと「知の編集学」など理屈っぽい本が多くて読んでもよく分からないものが多かった。でもこの本は講演した内容をまとめているので非常に判りやすい。野尻抱影(星の博士)「人間はね。五十歳か六十歳すぎたらやっと人間になるんだ」といって足で床を踏みつける。「このしたには地球が回っているのだよ」それが判って初めて人間になるんだ」と。この本は年を経てようやく丸くなってきた。またよく練れてきた松岡正剛に出会うことができる。この本は自分のお金で買って読む本ではないかと思う。
松岡は「民主主義」や「資本主義」が成立してきた基盤や背景に、もともといくつもの矛盾や問題があったのではないかと言っています。そして、もともと世界は同質じゃないのに、それを無理やり押し付け、均質化しようとすることに無理がありますからね。16世紀から世界の出来事を並列に並べて現在の民主主義(数の論理)、資本主義(強いものが勝つ、競争社会)がどのような経過を辿って出現して来たかを解き明かしている。その中には良いことも、悪いことも、間違っていることもあった。エリザベス女王は信長より1歳上のお姉さん。4歳年下が秀吉、6歳したが家康。イワン雷帝が4歳年上等々同時代の人物、出来事を横、縦、斜めから比較して世界の動きを判りやすく説明している。
いままで教科書では日本史は日本のこと、世界史はヨーロッパを中心にそれぞれ地域、年代をバラバラに習ってきたものだからそれらの関連について良く理解できて居ない人が多いと思う。松岡の視点は「編集」をキーワードに非常にユニーク。それぞれの歴史の解釈には異論もあるかもしれませんが、全体として総合的に捉えているのが非常に判りやすい。
最近のイギリスを出発点とした世界の潮流に流されて、グローバルスタンダード世界共通のルールなど、世界はこのまま進むと「政治」「経済」「技術」「文化」がバラバラになっていくしかない。なぜなら政治は「公正」経済と技術は「効率」を追求していく。文化は自己実現、自己満足に走る。物差しが別々のものになっていく。「公正」と「効率」とは矛盾していて一緒にはなれない。
「民主主義」や「資本主義」が絶対でもなんでもないのですよ。世界共通ルールなんて幻想なんですよ。誰かが自分たちの損得で作ったもの(特に最近では欧米が)東洋、イスラムの世界には違う基準もあるんですよ。イスラム問題と騒いでいるけれど第一世界大戦までオスマン帝国がイスラムを統一していて大きな紛争にはなっていなかった。80年ほど前のこと。長期的な視点、流れで考えることの大切さを説いている。いろいろ考える上で面白い本です。ときどき取り出して読み返してみるとまた新たな視点を与えてくれる。お奨めの本です。1日で一気に読んでしまった。久々に感動した本です。
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現代の社会がかかっている7つの病気
1.解決不可能の問題だけを問題にしている病気
2.議会政治が行き詰まるから議会政治をするという病気
3.公共暴力を取り締まれば私的暴力がふえていくという病気
4.地球を平等化すると地域格差が大きくなる病気
5.人種間と部族間の対立が起こっていく病気
6.知識階級が知識から疎外されていく病気
7.いったんうけた戦争の屈辱が忘れられなくなる病気
近現代史の「まちがい」がどこからおこったのか、そこをさぐっていくという語りかたに徹してみました。そのため本書では、多くの読者にはやや意外かもしれないであろう「イギリスのまちがい」ということをあえて示してみました。イギリスが犯罪者だというのではありません。イギリスは議会も株式会社もジャーナリズムも小説も産業技術も作ったんです。近代社会がその恩恵に浴しているモデルの多くがイギリスの発明です。
ところが、これらを世界に撒き散らさないと、イギリスは覇権を握れなくなった。そのため植民地を経営し、奴隷を発明し、三角貿易を定着させました。直播きです。直営です。それを百歩譲って、当時の世界経済の繁栄としてやむをえなかったとしましょうか。しかし、そのうちこのモデルは世界中が擬似的に共有するものとなってしまっていたんです。とくにそのイギリスからの移民によって自立したアメリカが、この覇権を継承すると、世界中が同一のルールとロールとツールを使うようになっていきました。
これは「まちがい」です。こんな歴史はかつてあったタメシがありません。だから、ここはよく考えなおすべきところです。ヨーロッパ諸国は、私が知るかぎりはこの「まちがい」を20世紀になってから何度かにわたって反省し、検討してきたように思います。その成果のひとつがフッサールやアドルノの現代思想や、カフカやベケットの文学となり、EUの試みやアート・ムーブメントになってきた。それを一言で言えば「自由と国家と資本主義」の新たな組み替えということでしょう。本書は、こうした「生みの苦しみ」のあとを辿ったものとも言えるかもしれません。
残念ながら、日本はいま「まちがい」を巨視的にとらえていないようです。互いの「なすりあい」に終始していて、疲れがでています。困ったことですね。
おわりに 苗代の知恵 P466
私は、そもそも近代社会というのは「代理の社会」だというふうに思っています。
自分で政治もしないし、料理もしないし、洗濯もしない。政治は代議士にしてもらい、洗濯はクリーニング屋に頼み、旅行は旅行代理店に組んでもらう。法律のことは弁護士にまかせ、食事もレストランのシェフのものを食べ、教育は先生方に面倒を見てもらう。企業も財政面を銀行に見てもらい、その宣伝は広告代理店に代理させていく。
これが近代社会の実態です。なにもかもが他人のつくる機関にまかせていく。そして、大衆はそれに文句をつければいいということになっていく。こういう「代理の社会」をつくったことが、ネーション・ステートのもうひとつの特色だったわけです。
すべての代理がよくないということではありません。「まちがい」とも言いません。政治や法律や教育や医療は、代議士や弁護士や教師や医師にまかせてもいいでしょう。けれども、そこには限界もあるし、失敗もあるし、過剰や不足もあるのだから、目を光らせるだけではなく、ときには自分で引き取る覚悟を持っていたほうがいい。
その代理性が、20世紀後半ではついに米ソによる「代理戦争」にまで究極化していったわけでした。2つの大戦の戦禍や原因など、国家においてはなにひとつ反省されていなかったんですね。
こんな「代理の社会」がこのまま、21世紀の政治や経済の理想モデルになるかといえば、とうていムリでしょう。私はそれをせめて「編集の社会」にしていくべきだと思っています。「代理を編集で取り戻せ」ということですね。
資本と大衆の時代 冷戦時代のポリティクスーー代理社会の代理戦争 P392