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わが屍は野に捨てよ

書名:わが屍は野に捨てよ
   一遍遊行(いっぺんゆうぎょう)
著者:佐江 衆一
発行所:新潮社
発行年月日:2002/8/25
ページ:224頁
定価:1500円+ 税

藤沢に遊行寺(時宗)がある。放浪の人一遍上人であったので、一処に留まることをよしとしなかった。寺も住居も持たず遊行に日々をおくる。「南無阿弥陀仏」「なみあみだぶつ」を唱えながら念仏札を配った。法然、親鸞から少し遅れて出現した聖人。同時代に日蓮がいる。一遍上人の歩みを思想変遷ととも描いている。なかなかの力作だと思う。末法の時代に出現した聖人たちが同じように考え行動していくところがまた不思議である。

政治の乱れ、飢饉、災害、元寇と世の乱れに庶民は一遍上人の「踊り念仏」に熱中していく、そした念仏往生。法然から流れている他力本願をより進めて、念仏(なみあみだぶつ)を唱える続けると、人が念仏を唱えているのではなく、念仏が念仏を唱えている。人はどこかに行ってしまう。他力の神髄をそこに求めた遊行の人。一遍の壮絶な人生を描いている。

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没後の事は、我が門弟におきては葬礼の儀式をととのふべからず。野に捨ててけだものにほどこすべし(一遍聖絵より) 教信沙弥の生活の汗にまみれながらの純粋な信仰と、その死を越えた境地の入寂は、「捨ててこそ」の一遍上人にとっても理想のものであっただろう。

念仏の機に三品あり、上根は、妻子を帯し家にありながら、著せずして往生す。中根は、妻子をすつるといへども、住処と衣食とを帯して、著せずして往生す。下根は、万事を捨離して往生す。我等は下根のものなれば、いっさいを捨ずは定て臨終に諸事に著して往生を損ずべきものなり。よくよく心に思量すべし。
(本書より)
現代語訳:念仏をする衆生には三段階がある。上の段階のものは、妻子を持ち家に住みながら執着することなく往生を遂げる。中等の者は、妻子を捨てる(出家)が、衣食住を離れず執着もしないで往生する。下等の者は、一切を捨てて往生する。私などは下等の根機であるから、一切を捨てないと、きっと臨終の時になって、万事に執着して、往生をしそこなうはずである。よくよく心におもいめぐらせねばならない。
(一遍上人全集 播州法語集 春秋社より)

一遍上人は、自分を下根の者という。それは、再出家の根底、遊行の根底に流れる一つの澪(みお)だろう。寺も住居も食の当ても持たず、遊行に日々をおくる聖は、いつの頃から執着を離れ、澄んだ機根となったのだろうか?
叩きのめすべきは私の下根。いつまで続けるのか貪瞋痴