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本に出会う

原三溪翁伝

書名:原三溪翁伝
著者:藤本 實也
発行所:思文閣出版
発行年月日:2009/11/1
ページ:895頁
定価:16000円+税

1945年8月16日に原稿が完成した。でも61年間刊行されなかった原富太郎翁の伝記です。勿論著者の藤本實也は故人。19世紀半ば、横浜などの開港を契機として本格化した近代日本の経済成長は、欧米先進国へキャッチアップを試みたアジアの途上国の先駆をなすものとみられている。この成功の一つに近代化以前に独立性を確保していたのが、江戸末期の生糸であった。丁度ヨーロッパに発生した蚕種の微粒子病の蔓延により、ヨーロッパ域外への生糸需要が急増した。こうしたなか、生糸基軸体制を構築、維持に大きな役割を果たしたのが、横浜の開港場に参集した原善三郎、茂木総兵衛、吉田幸兵衛ら生糸売込商であった。生糸が輸出の基幹産業として、武器の購入、軍艦の購入などに大きな力を発揮していた。横浜は善きもあしきも、亀善のはら(腹=原)ひとつにて、事決まるなりという俗謡がある。

原善三郎の孫娘屋寿と結婚して養子と原家に入ったのが青木富三郎(原三溪翁)であった。善三郎の起こした生糸売込商を守り、発展させた。と聞くと逆玉の幸せな人となってしまうが、経営者としても抜群の人、そして文化芸術にも深い、余りにも大きすぎて誰も評価が出来ない位の器量の大きな人。まして横浜をこよなく愛し、横浜の為には全てを注ぎ込んだ人。どんな時でも表だって先頭には立とうとはせず、適切な人を選んで、自分はその黒子に徹する。それもただの黒子だけではなくとことん目立たないように根回し、調整をしてその人が十分仕事が出来るように配慮するといった性格の人。生糸産業に大きな貢献として貿易品の常として価格変動による不況、暴落の時、組合を作って政府資金をいれて業界全体として生糸産業を支援した。(自分の全財産をなげうつ覚悟で)

また関東大震災の時横浜は壊滅的な被害、生糸に輸出を神戸港が狙っていた。(火事場泥棒的な動き)それに対して17日で横浜の生糸貿易を復旧した(意地ですねえ)。また横浜市復興会の会長(生糸貿易の復興に全力投球している超多忙の三溪翁に市長、知事などから懇願されて、事前に復興計画、メンバーの選択などの準備を経てやむを得ず引き受ける)として、復興会メンバーに発足当初(9/19)に話したことは横浜の外形は何も無くなってい待ったけれど。市民の本体はある。他人の援助を叫ぶ前に先ず、自ら奮起して自ら背水の陣を張って後、他の援助も同情も期せずしてくる。みだりに他人の援助のみに依頼するはかえって他の援助と同情をしりぞくるの結果となる。被害の損失を5億円と仮定し、40万人の市民が1日50銭を節約すれば1日20万円、1月600万円、1年で7200万円すなわり7年で償還することができる。市民一丸となって復旧に全力を尽くせば出来ると説いている。そして全力を傾けて復興にかけている。

ただ三溪翁は政治家の知人、友人は一杯いたが、自らは絶対に政治には近づかなかった。また賄賂まがいのことは絶対しなかった。実業においても優れた人であるが、それ以外の領域においても凄い才能をもっていおり、横浜というと三渓園と言われるほど、殺風景な町横浜にあって文化芸術の香りのあるところを残している。開港当時の横浜というところは世界からならず者、食い詰めた者、全国から一攫千金を目指してぎらぎらとした人々の集まる柄の悪い町。そんな中で生糸の貿易というやくざな商売を行っていた商人達は次々と没落していった。そして残ってきたのが原善三郎、茂木総兵衛、吉田幸兵衛。

そんな中、三溪は三渓園に、全国各地の建築物、書画、骨董、仏像などの大一級品を集め、そして三渓園を一人秘蔵することなく、市民に開放した。また下村観山など画家のパトロンとして画家の育成、茶室で茶を極め、自分でも日本画を描く、書も書く、読書も。また歴史についても深い理解。単なる金持ちという範囲では収まらない人。教養人であり、慈善事業にも自らの名前などは出さないで見えないところで多額の寄付、支援を行っている(著者が関連者を聞き回って初めて判った行為が一杯。全体は調べようがないと)この本を読めば読むほど三溪のことをもっともっと知りたいという気になってくる。三溪翁が亡くなってから関係者にインタビューをしながら集めた一級の資料だと思う。
また歴史の短い横浜の事を調べるには非常に便利な資料だとも思う。

この三溪翁を読んで、似た人物というのは大本教の出口王三郎を思い浮かべる。この人も大きな器量な人だと思う。大本教というのは戦前、2回も不敬罪で本部を当局に爆破された教団で、日本陸軍の秋本真之をはじめとする軍の幹部なども熱心な信者だった。「邪宗門」という小説の題材にもなっている。

この本は戦前の文章なので漢文調のところもありちょっと大げさに書いているところがあるが、やっぱり語彙と著者の教養の深さを見せてくれる文章が良い。ただ読むのに時間が掛かる。横浜を代表する原善三郎、茂木総兵衛、吉田幸兵衛。それに高島嘉右衛門、原三溪の伝記が殆どなかった。少し横浜が見えてきたような気がする。

本文より
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今回の事変は素より未曾有の災害でありますが、此の場合に於いて又反面に幾多の光明を見出し得ると存じます。今回は横浜開港以来吾々祖先がその心血を注いで六十年来蓄積した処の全ての機関も組織も挙げて一朝の烟と消えしめました。しかしながら此は言わば横浜の外形を焼尽くしたというべきものでありまして、横浜の本体は厳然として尚存在しているのであります。横浜市の本体とは市民の精神であります。市民の元気であります。~中略~


復興小唄
浜自慢          三溪
横浜よいところじゃ
太平洋の春がすみ
わしが待つ舟明日つくと
沖のかもめがきてしらす

よこはまよいところじゃ
青葉若葉の町つづき
屏風ヶ浦の朝なぎに
富士がめざめて化粧する

横はまよいところじゃ
秋の青空時雨もしよが
浜の男の雄心は
火にも水にもかはりやせぬ

横浜よいとこじゃ
黄金の港に雪ふれば
白銀のせてつみのせて
千艘万艘のふねがよる