書名:保科正之の一生
著者:三戸岡 道夫
発行所:栄光出版社
発行年月日:2006/2/1
ページ:327頁
定価:1700円+税
徳川秀忠の子と身ごもった志津は、江与(お江の方)を怖れた秀忠はお城下がりを言い渡す。武田信玄の二女、穴山梅雪の正室見性院という老尼と信玄の六女信松院の二人に保護された志津は男の子を出産する。幸松(後の正之)と名付けられたは見性院、信松院の二人に育てられた。7歳で信州高遠藩主保科正光の養子縁組みして母志津とともに高遠に住む。兄家光、忠長の三代将軍の巡っての争いが表面化してし、春日局の大活躍で結局、家康の指示で跡継ぎは竹千代(家光)と決まった。
戦国時代を勝ち残ってきた創業の人家康、その基盤をついて反対派、有力武士を押さえながら
幕府を運営していた秀忠。落ち着いたとはいえまだまだ徳川に反旗を翻らせる恐れのある時代を生きる家光。武断政治から文治政治への移行時期を家光の影の支援者に徹して生きた保科正之。兄弟でありながら家臣に徹した。そして家光亡き後は徳川四代将軍家綱の後見人として将軍家に忠誠を誓い。御三家以上に徳川に忠誠の家会津藩保科家(後に松平家と改名)としてその礎をとなった保科正之の一生を描いている。
織田信長、徳川家康などのような創業のリーダーではなく、仁徳で世の中を安定させるためのリーダーとして21世紀にも通用するリーダー像がここにあるように思う。有名な15条の家訓。幕末にこれが影響したのか会津藩の悲劇もあったが、200年以上の前の保科正之の家訓が営々と語り継がれて規範として幕末まで残ってきた。保科正之の業績の中で江戸城の天守閣を再建しなかった。(天守閣は時代遅れと割り切った)。高齢者の福祉、親孝行の表彰。扶持を与える。殉死の廃止、末子養子の禁止の緩和(大名家が潰れないように)。妻子供の人質の廃止。振り袖火事で大混乱したとき、大名を自国に率先して帰らせた(火事で食糧不足の時には人を地方に移す)なかなか味な政治をやっている。もう一度じっくりと見直してみたい人物です。それもNO1ではなく、NO2に徹している。
保科正之の15条の家訓
一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。
一、武備はおこたるべからず。士を選ぶを本とすべし 上下の分を乱るべからず
一、兄をうやまい、弟を愛すべし
一、婦人女子の言 一切聞くべからず
一、主をおもんじ、法を畏るべし
一、家中は風儀をはげむべし
一、賄(まかない)をおこない 媚(こび)を もとむべからず
一、面々 依怙贔屓(えこひいいき)すべからず
一、士をえらぶには便辟便侫(こびへつらって人の機嫌をとるもの
口先がうまくて誠意がない)の者をとるべからず
一、賞罰は 家老のほか これに参加すべからず
もし位を出ずる者あらば これを厳格にすべし。
一、近侍の もの をして 人の善悪を 告げしむ べからず。
一、政事は利害を持って道理をまぐるべからず。
評議は私意をはさみ人言を拒ぐべらず。
思うところを蔵せずもってこれを争うそうべし
はなはだ相争うといえども我意をかいすべからず
一、法を犯すものは ゆるす べからず
一、社倉は民のためにこれをおく永利のためのものなり
歳餓えればすなわち発出してこれを救うべしこれを他用すべからず
一、若し志をうしない
遊楽をこのみ 馳奢をいたし 土民をしてその所を失わしめば
すなわち何の面目あって封印を戴き土地を領せんや必ず上表蟄居すべし
右15件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり
寛文8年戊申4月11日
一、婦人女子の言 一切聞くべからずは保科正之のことが判ると理解出来ることですが、とんでもないと思われる人もいるかも。男尊女卑?って