書名:東京駅の建築家 辰野金吾伝
著者:東 秀紀
発行所:講談社
発行年月日:2002/9/5
ページ:478頁
定価:2200円+税
2012年10月1日復元工事が完了した東京駅(中央停車場)、1945.5.25東京大空襲で破壊されて1947年に応急処理的に復旧された。その後60年何度も復元、建替えの議論が続いたがようやく復元された。この東京駅を1914年に日本人初の建築家として設計、施行した辰野金吾の伝記です。幕末には官軍と戦った唐津藩の最下級の武士の出身の金吾、藩主と共に戊辰戦争に従軍した曾禰達蔵が明治の東京へ出てきた二人は工学寮(東京帝国大学工学部の前身)に一期生として入学。金吾は30人中30番目の最下位の成績で合格。その後の努力で首席で卒業。イギリスに留学する。
そして東京大学の教授、日本銀行を初めとする各地の西洋建築の設計を手がける。明治時代のお国の役に立つ、「坂の上の雲」を目出す立身出世物語。曾禰達蔵は海軍から岩崎弥太郎の三菱へ。東京丸の内の三菱が原(当時そう呼ばれていたようです)に西洋建築(煉瓦造りのビル)を設計した。
辰野金吾らが日本で初めて建築家と呼ばれる人達、それ以前には建築家はいなかった。賊軍だった唐津藩出身の二人が皇居の前の東京駅、丸の内の建物設計を行っていたというのはちょっと歴史の皮肉ですね。辰野新吾の晩年の作品になる東京駅は辰野新吾の後輩達建築家からは悪評だった。弟子に寄れば「明治という時代は旧来のものが全て焼け落ちてしまった火事の後の過渡期である。そこで建築家たちは急場の間に合わせに西洋建築を見様見真似で事足れりとした。しかし建てられたものはルネサンス様式も、ゴシック様式も、西洋人にとっては歴史だが、日本人には、何の内発的必然性もない。ただ表面的な模倣である。」と。
簡単に言うと辰野新吾は「もう古い、老いたな」という評判が聞こえてきた。元々東京駅はドイツ人技師パルツァーの設計した中央停車場を辰野新吾が改作したものだから、辰野新吾のオリジナルというのは無理がある。そして基礎設計が出口、入り口、貴賓の出入り口が完全に分けられていた。利用者に取っては使い勝手が悪い駅舎だったようです。昭和27年の復旧時に現在のように変更された。
また当時の最先端の技術、鉄筋コンクリートを使う予定だったのが、倉庫など美的センスのない実用的な建物に使われていた赤煉瓦を使うことに拘ったのは辰野新吾だといわれている。それは先に出来た三菱の建物群が恩師コンドル、親友の曾禰達蔵に寄って赤煉瓦で作られているので街全体のバランスを考えて主張したのではないかと推定される。同級生の宮廷建築家片山東熊は赤坂離宮(東宮御所)を設計している。ネオ・バロック様式の外観があまりにも華美に過ぎたことや、住居としての使い勝手が必ずしも良くなかったので離宮となった。(大正天皇の頃)
明治時代、「坂上の雲」を目指した人達がそれぞれ立身出世を夢見て、この国を何とか西欧列強に負けない国にと意気込んで必死で生きていた。その情熱と意気込みが感じられる物語です。ただそんな中にも曾禰達蔵のように建築家ではなく歴史家になりたかった。同じ同級生でもまったく設計はしなかった人。辰野新吾の息子辰野隆(東京大学文学部仏文科初代教授)のように。上ばかり見て居た人だけではなかったというのも面白い。辰野隆の教え子に小林秀雄、三好達治等がいる。
本書より
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わが国近代建築のなかで、東京駅はおそらく最も多く小説に取り上げられてきたものであろう。とくに私の記憶に残っているのが、江戸川乱歩『怪人二十面相』である。
怪盗が帝都に跳梁する状況下、待ちに待った名探偵明智小五郎が帰朝し、颯爽と東京駅に降り立つ。この名探偵を外務省の役人に変装した二十面相がプラットホームで出迎え、二人はステーションホテルの一室で対決する。
「この駅はあたかも光線を放射する太陽のようなものだ。あらゆるものの中心となって、ここから光を四方八方に放ってほしい」と、開業の祝賀式で時の首相大隈重信が述べた言葉は、まさに以後の東京駅と近代日本の行く末を言い当てることになった。――(あとがき)