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疾風の人 ある草奔伝

書名:疾風の人 ある草奔伝
著者:松下 竜一
発行所:朝日新聞社
発行年月日:1979/10/30
ページ:311頁
定価:1300円+税

太平洋戦争の戦時下、鬼畜米英の手先福沢諭吉の旧邸に石が投じられる一方で、その隣の増田宋太郎の皇国思想は大東亜聖戦を叫ぶ軍国主義の八絃一宇の思想の範として顕彰された。敗戦によって、福沢諭吉がこの国の民主主義の鼻祖として復権した時、増田宋太郎は触れてはならない危険人物として扱われ、性急に忘れられていく。

福沢諭吉の又従兄弟増田宋太郎29年の生涯を描いた作品。福沢諭吉は「学問のすすめ」で「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。これは中津藩の洋学校の生徒用に作ったものが基本になって「学問のすすめ」が刊行されたとのこと。

福沢は最初は洋楽、西洋賛美の言辞が目立つが、その後「脱亜論」では支那(清)と朝鮮(李氏朝鮮)を挙げ「悪友を親しむ者は共に悪名を免かる可らず。我は心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」と左から右に急速に考えを変えている。また自由民権運動に対しても積極的ではなかった。福沢はある意味時代の空気を読むのが旨く、決して主役の座には登ることはない。常に政治とは一線を画して深入りはしない。非常に慎重な性格。従兄弟の増田宋太郎は全く頑固一徹、王政復古、尊皇攘夷思想一辺倒で福沢諭吉の暗殺まで考えていた。

古い風習と新しい文明開化の明治の初期の混沌とした思想、生活がよく分かる。でも明治8年頃にはだんだん福沢に惹かれ慶應義塾に入っている。右から左へと思想を変えている。そして福沢と増田が同じような考えを持ってきたときに起きた西郷隆盛の西南戦争。旧中津藩の同士を従えて西郷の元へ走って、死んでしまった増田宋太郎。でもその理由はよく分からない。西郷と増田は顔を合わせたこともなかった。廃藩置県、禄の支給停止、そして下士以下は解き放し(首)、その後何をして生きていけば良いのか不安な人々が明治政府に反乱(維新によって自分たちの国が出来ると夢見ていた。でも現実は薩長の一部の人間の贅沢な生活、堕落した政府に失望)を起こした。その御輿として西郷を担いだ。不平士族の起こした反乱が西南戦争。その中に身を投じた増田宋太郎の生き方も一つの方法だったかもしれない。

その後の福沢諭吉の現したものをたどっていくと民主主義の鼻祖というのは疑問符がつくような気がする。人の上に人を作らずといって福沢でさえ、日本人の庶民の馬鹿さ加減にへきへきしている。そして支配者階級(上士以上)が中心になってこの国を強くしないといけないとまで言うようになっている。若い頃に外国に行って、理想の国と写った西洋の国々にも欠点が目立ってきた。そして再度日本を見直したと言ったところか。増田宋太郎の生涯を描くことで幕末から明治初期の日本の様子を丁寧に描いている。ちょっと難解な古文、漢文(ちょっと大げさすぎる表現)がでてくるが。

本書より(福沢諭吉の未発表論文より)
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「誠に、我開港場等に在留する外人を見るに、百人に九十九人は、有徳の君子とは思われず、人の話を聞けば、外国人は皆後生を願ふ由なれども、余輩の鑑定にては、開港場の外国人に、極楽往生の出来べき人物はきわめてまれなり、食い逃げ、人力車に乗りて賃銭を払わず、普請をして大工を倒し、約条の前金を取って品物を渡さず、欺策詐術至らずところなし」