書名:中川の地名
著者:吉野 孝三郎
発行所:新進印刷所
発行年月日:1983/2
ページ:115頁
定価:非売品
書名:続中川の地名
著者:吉野 孝三郎
発行所:新進印刷所
発行年月日:1986/11/23
ページ:67頁
定価:非売品
武蔵国都筑郡(現横浜市都筑区)中川村、山田村、勝田村、大棚村、茅ヶ崎村の地名について書かれている。地名というのは話し言葉、そしてその言葉に漢字を当てた、当て字が多いので、その地名の漢字で意味を探るとおかしなことになってくる。また当て字はなるべく「け」の言葉は使わず、「はれ」の言葉を使うようになってきている。また読みも方言が混じっている、それに漢字を当てているので変わった地名もみられる。
例えば加賀原、○○加賀守が住んでいたという伝承らしきものがあるが、「かが」芝草地のかがから来ている。佐江戸も「さいど」道祖神「斉の神」からきているとか?
また徳川家康が江戸にやって来たときから新たに開墾によって新田の開発が盛んになって開墾によって出来た地名徳生(新たに開墾した地は税が免除になって得する地、徳する地)そこから「とくしょう」とか?著者も書いているが、この本の内容は全て正しいのではなく、少しでも正しいと思われるものを集めたとのこと。
山田(やまた)この矢股(やまた)から来ている。1675年河野家の文書にみられる。その後山田となっているととのこと。矢股とは川が別れていることをさす。矢は谷に通じる。
牛久保村は大棚の後ろの窪地をさして後窪から牛窪そして牛久保になったとか。大棚村は昔から豊かな土地で日当たりの良いところ、南面に棚のように田畑が並んでいたことから大棚と呼ばれたとか。
勝田村は「かちだ」鍛冶田、鍛冶師が開いた田であった。ここは久志本氏(伊勢の国の医師、徳川秀忠の疱瘡の治療して尚した先祖)の領地だった。
茅ヶ崎村、ここは中川では一番古い地域、杉山神社の伝承に(白鳳3年天武天皇672-686)安芸国安芸郡の安芸神社の神主忌部勝麻呂が茅ヶ崎に杉山神社を創建したという。(現代まで50代前後の家系が続いている。忌部氏→杉山氏→北村氏)
芽茅(ちがや)の岬につけられた地名。→茅ヶ崎、血ヶ崎「正保年中改定図」とも。
寿福寺は、平安初期に弘法大師によって創建された古刹。平安初期(806年)に弘法大師によって創建された歴史ある古刹。長福寺と呼ばれていた。承元4年(1210年)に多田山城守行綱の孫、智空法師(俗名多田福寿丸)によって浄土真宗に改宗されました。そして寿福寺に名前を変えた(八代将軍徳川吉宗の子長福丸(九代将軍家重)に遠慮して)多田山城守行綱ゆかりのお寺と言われている。また都筑区でも一番古いお寺かも。そして行綱が中川地域を領地として持っていたか?これについてはいろいろ説があるようです。義経が瀬戸内海に進行するときに止めたという記録が残っているが、その後のことは不明の人物です。
小冊に過ぎない本ですが、中川の地名に関しては一級資料だと思う。よく調べてあると思う。
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中川村
中川村(なかがわむら)は、1889年(明治22年)4月1日から1939年(昭和14年)4月1日まで存在した神奈川県都筑郡の村。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、山田村、勝田村、牛久保村、大棚村、茅ヶ崎村が合併して成立。
1939年(昭和14年)4月1日 - 横浜市に編入。同日中川村廃止。同日に新設された港北区の一部となる。
1994年(平成6年)11月6日 - 横浜市港北区、緑区の2区が、港北区、緑区、都筑区、青葉区の4区に再編成。旧村域が都筑区となる。
住居表示実施地区 : 東山田、北山田、南山田、勝田南、牛久保、牛久保東、牛久保西、大棚西、茅ヶ崎中央、茅ヶ崎東、茅ヶ崎南、中川中央、中川、すみれが丘、長坂の全域、平台、桜並木のほぼ全域、新栄町、仲町台、早渕の各一部(それぞれ旧港北区新羽町、新吉田町の区域を除く)
住居表示未実施地区 : 東山田町、南山田町、勝田町、牛久保町、大棚町、茅ヶ崎町
本書より
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山田村
山田村は「風土記」によれば。文禄三年1594年)の文書に、武州都筑郡師岡庄小机之山田ノ郷とあったという。これは徳川家康が江戸城主となった天正十八年(1590年)から四年後のものである。
その後、寬門五年(1645年)の文書には、神奈川領矢股村と書かれていたといい、この矢股は文字を間違えたのであろうといっている。しかし、山田は古くは矢股であったのではないかと思われる。
大化の改新(645年)の律令制によって、行政区画は国・郡・里制に定められたが、霊亀元年(715年)里を郷に改められて、それ以降は郡の下は郷となった。よって武蔵国都筑郡山田ノ郷でいいのだが、この間に庄や領(内)などがはいるのは、その地域(土地)の支配関係を示しているのである。
庄とは荘園のことで奈良、平安時代から存在し、公卿や社寺などの私有地であり、実体がなくなってからも地名として残っていた。
郷は公領的性格が強かったといわれている。庄の呼称はやがて豊臣秀吉の太閤検地(天正~文禄年間)に事実上消滅した。
やがて江戸期にはいって村が行政の単位となるが、しかし、水帳(正しくは御図帳・検地帳といって江戸時代、土地の反別の図に所有者の名・年貢高など記入して名主が保管していた)などにはその後も庄名が使われていたようである。
山田村は、小田原北条氏の頃は曽根外記の所領であったが、小田原北条氏滅亡後、徳川家康の江戸入府によって、徳川氏の旗本領となり八王子千人頭などの知行地となった。
江戸初期には旗本十人で分割(十給地という)していたが、その後改易没収などがあって、旗本は地頭(領主)は八人(八給地)となっていた。
明治元年(1868年)調査による各氏の村内知行高は次の通りである。(カッコ内は知行高)
なお、天領(幕府直轄地)は代官が支配していた。
志村源一郎(509石)377石4斗5升8合
河野仲次郎(600石)288石6斗7升8合
山本弥左衛門(不明)240石0斗3升1合
曽根栄之助(500石)88石9斗4升4合
鈴木邦三郎(607石)54石2斗0升7合
荻原土岐次郎(不明)3石7斗
窪田鉄三郎(不明)2石5斗3升
中村左京(不明)1石3斗
松村忠四郞支配所(天領)51石6斗
山田村の旧家は次の諸氏である。
亜雁 芥生 安藤 飯田 飯塚 石原 市川 伊東 今西 岩崎 植田 内田 漆原 遠藤 大島 小沢 男全 織茂 金子 川島 川田 栗原 小泉 斉藤 酒井 鈴木 高野 高橋 田辺 田丸 出川 徳江 西内 長谷川 原木 宮本 八木 吉田 渡辺
○山田 山田村=山田各町
山間の田の多い場所につけられた地名。山田がいかに田の多い村であったか、次の江戸初期における検地高をみるとよくわかる。
総高 775石4斗7升9合
田方 511石8斗0升8合
畑方 256石3斗9升1合
野高 8石
これによれば田と畑の比率は2対1である。
しかし、前に述べたとおり、山田は矢股ではなかったか。それは地形が矢股にふさわしいからである。矢股の地名は矢(ヤ)は谷(ヤ)で湿地帯の意。山田の字名の多くは○○谷と谷(ヤトとヤ)が付いていた。
股(マタ)は本流の川に支流の川がそそぐ場所のこと。山田は早渕川の本流に対して、牛久保村境を流れる小川と、村内富士谷から流れ出す小川が村内で早渕川で合流していた。このような合流点を股という。
都筑郡青砥村(緑区青砥町)は村内で鶴見川(谷本川)と恩田川が合流する。そのため村名を「合水」(アウド)とし、青戸→青砥(アオト)の字を当てたものである。この地方ではウをオと発音する。また、水の合流点付近は水が落ち合うということで「落合」の地名も多い。矢股、青砥、落合はいずれも川の合流点にみられる地名である。
○神無(シンナシ)山田村=北山田町
古くはコム谷、窪地の多い地形の険しい場所につけられた地名。コムに神無(カム・コム)の字を当ててシンナシと呼び方を変えたもの。コムは、籠、込などの字を当てるところが多く、籠場(ロウバ・カゴバ)籠谷(ロウヤト)などの地名が多い。
勝田村(カチダ)
勝田村は鎌倉時代・源実朝の承元三年(1209年)に幕府から「五升米」の納付を命じられた記録がある(金沢文庫古文書)そのほかに古い記録は見当たらない。
慶長三年(1598年)伊勢の国医師・久志本左京亮常範が徳川秀忠の疱瘡にかかった折、薬を献じ、その功により、鍛冶田郷ほかあわせて三百石を賜ったという。常範の墓は最乗寺にある。
勝田村の久志本氏は、江戸初期から幕末まで勝田村の地頭として二百七十年続いた。知行高は村内199石8斗(正保~慶安)で、牛久保村に94石6斗9升4合を持っていた。
明治元年(1868年)調査によ村内内知行高は次の通りである。(カッコ内は知行高)
久志本主税 (300石)254石0斗1升6合
杉山社除地 1石2斗6升
最乗寺除地 1石5斗0升8合
清光寺除地 1斗1升6合
勝田村の旧家は次の諸氏である。
浅見 栗原 小島 小山 佐藤 沢 鈴木 関 日野 平野 守谷
○勝田(カチダ) 勝田村=勝田町
古くは鍛冶田。鍛冶師の開いた田ということであろう。「正保年中改定図」には歩田村と書かれている。現在の勝田は鍛冶田に佳字を当てたものとみられる。いまの土地の人の発音は「カチダ」である。
牛久保村(ウシクボ)
牛久保村は「風土記」によれば、南北に山を負いすべて高低山林の地で、畑が少なく山が多かったが、田がないので谷間の清水を集めて用水としたため土地は冷気多く収穫は少なかったという。
牛久保村は、もと大棚村字牛窪で文禄三年(1594年)に大棚村から分離して独立した。「正保年中改定図」には牛窪村と記載されている。中川五か村では地形的に恵まれず、一番開発が遅れて江戸中期頃から本格的に開発が行われたようだ。当時は牛久保新田と呼ばれていたという。新田は、古くはニタ・ニッタなどといい、江戸時代以降はシンデンと呼ぶ。新田は、田ばかりを意味しているわけではなく「地方凡例録」によると「新田トハ、新田・畑・屋敷等ノ総名ニシテ、新田トモ、新開トモ云」とある。
江戸の名主斉藤氏の「江戸名所図絵」によると「承応より享保に至り四度まで新田開発ありて-」とあるが、しかし、新田開発が活発に行われたのは八代将軍吉宗の享保十一年(1726年)に「新田検地条目」が出されてからという。
中川の五か村が、江戸時代にいかに開発されたいったか次の各村の知行高を比較してみれば明かである。(端数切り捨て)
(江戸初期) (明治八年) (増加高) (増加率)
山田村 775石 1108石 333石 43%
勝田村 199石 257石 58石 29%
牛久保村 112石 257石 145石 129%
大棚村 466石 492石 27石 6%
茅ヶ崎村 369石 515石 146石 40%
合計 1923石 2632石 709石 37%
増加率の平均は37%であるが、平均を超える村は牛久保・山田・茅ヶ崎で最高は牛久保の129%で倍以上になっている。それだけ開発されて耕地面積が増え生産高が増加したのである。二位は山田村、三位は茅ヶ崎村の順で、最低は大棚村の6%となっている。そのためか、牛久保・山田村には開墾地名が多いようだ。
大棚村は、南向きの日当たりのよい土地に恵まれて、江戸初期の頃までには、すでに開発が完了していたものとみられる。
牛久保村は、旗本領二給地で明治元年(1868年)調査によると村内知行高は次の通りである。
久志本主税 (300石) 186石6斗3升8合
安藤織部 (450石) 35石7斗4升
松村忠四郞支配所(天領) 35石5斗1升9合
牛久保村の旧家は次の諸氏である。
安藤 岩崎 岡本 唐戸 笹本 関 田丸 長沢 宮台
○牛久保(ウシクボ)
古くは牛窪。大棚村の頃うしろの窪地につけられた地名。牛久保は後久保のこと。後(ゴ・ウシろ)に牛(ゴ・ウシ)の字を当てたもの。
大棚村(オオダナ)
大棚村は江戸初期の頃は現在の大棚町、中川町、牛久保町をあわせて大棚村といったが、文禄三年(1594年)に字牛久保(牛窪)が分離して独立した。
大棚村は南傾斜地で早渕川に沿って横に広がっていた。開発も早く耕作地はすぐれていて、石盛(標準収穫高)も上田14、中田12、下田10と中川では一番高かった。万治元年(1658年)に大棚村と牛久保村の間で、しゅ場(12万1526坪)の入会をめぐって争いがあった。しゅ場は現在の中川町と牛久保町の西の方にあったが、争いは元禄八年(1695年)に至って両村で分割することによって解決した。
しゅ場の付近に、大棚下山田村という場所があった。大棚村の一部でこれは天領(幕府直轄地で代官支配)と私領(旗本領)を区別するためにつけた地名という。山田村に近かったためこう呼んだのであろう。
大棚村は小田原北条氏の頃は山田村と同じ曽根外記の所領であった。江戸初期に八王子千人頭十二人の知行所となり、十二給地であったが改易などもあって、明治元年(1868年)には八給地になっていた。
明治元年(1868年)調査によ村内内知行高は次の通りである。
荻原土岐次郎 (480石) 90石7斗
窪田鉄三郎 (不明) 67石1斗0升5合
窪田鉄之助 (450石) 59石2斗
原半左衛門 (340石) 45石7斗8升9合
中村左京 (不明) 39石1斗3升
窪田熊五郎 (不明) 33石0斗3升5合
河野仲次郎 (600石) 15石6斗6升5合
山本弥左衛門 (不明) 11石5斗5升1合
松村忠四郞支配所(天領) 63石5斗4升6合
大棚下山田村(天領) 68石1斗0升2合
大棚村の旧家は次の諸氏である。
(大棚町)
飯島 石田 岡本 栗原 小林 鈴木 関 皆川 吉野
(中川町)
大久保 金子 酒川 嵯峨野 長沢 松本 皆川 吉野 渡辺
○大棚
横に広がった山の南傾斜地につけられた地名。(大は接頭語)棚(タナ)は山腹に緩やかな平坦地を伴って、横に広がる地形をいう。棚の地名は全国にみられ、多奈、多名、田名、田奈、丹那などの字を当てている。
茅ヶ崎村(チガサキ)
茅ヶ崎村は、杉山神社の伝説(白鳳三年=天武天皇672年~688年)からみて、中川ではもっとも古い歴史を持つ村といえる。
安芸国安芸郡の安芸神社の神主忌部勝麻呂が茅ヶ崎村に土着して杉山神社を創設したという。その弟義麻呂が杉山神社初代神主となり現在まで五十代前後の家系が続いている。(忌部氏は後に杉山氏→北村氏となる)
忌部氏は二十七代までは代々義麻呂を名乗っている、二十二代義麻呂は南北朝時代の延文二年(1357年)足利氏の命令に抵抗したため社領を悉く没収されてしまった。二十八代義明以降北村玄蕃を称し幕末に至っている。(以上北村系図)
茅ヶ崎村は、北村・金子・岸の各氏が中心となって開発が進められたようである。
慶長三年(1598年)、三河国の野々山新兵衛頼兼が茅ヶ崎村と折本村の一部を領した。新兵衛は茅ヶ崎領の一部を江戸芝の増上寺に寄付したため、村内は野々山領と増上寺領に二分された。
明治元年(1868年)調査によ村内内知行高は次の通りである。
野々山新兵衛 (230石) 216石2斗1升4合
増上寺領 293石8斗2升4合
正覚寺領 5石1斗
茅ヶ崎村の旧家は次の諸氏である。
相沢 荒川 飯塚 池田 市川 小野島 金子 岸 北村 小泉 小山 佐藤 城田 鈴木 多田 田中 深川 松本 八木 吉川 吉野 米山
○茅ヶ崎(チガサキ) 茅ヶ崎村=茅ヶ崎町
芽茅(チガヤ)の岬につけられた地名。この地名は相当古くからあるものとみられる。チガヤはいまはあまり見られないが、戦前までは早渕川の堤防や山野に密生していた。崎はミサキ(御崎)でもあり、突き出た場所、出っ張った場所で、杉山神社付近をさしたものか。なお「正保年中改定図」には血ケ崎村となっている。