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都筑が丘

書名:都筑が丘
著者:松沢 由貞
発行所:横浜港北新報社
発行年月日:1970/4/1
ページ:97頁
定価:非売品

著者は荏田町に住んで、中川小学校の教員を15年、その後横浜市市会議員を務めた人。東急による開発で街が大きく変貌していくという時点で過去の都筑が丘のことをエッセー風に綴った本です。(現在1970年当時)のこと、明治時代のこと、大正時代のこと、戦前、戦中、戦後のことなどがランダムに書かれています。青葉台駅が出来る前は青葉駅から恩田まで1軒の家もなかった。

恩田の近くに隔離病棟があったとか?元石川の陸軍の演習場があって、そこにたまプラーザが出来て駅、団地などが開発された。関東大震災の時、大棚町の方向から砂煙が舞いながら、やってきた。中川小学校の校庭にひびが入って、大きな石の門柱が倒れた。とか。荏田宿の大火事のこと。思いつくままに挿絵とともに描かれている。

著者の入学した神奈川師範は鎌倉にあったようだ。寮生活か、下宿か。今の横浜国立大学付属小学校あたりか?綱島まで歩いて東横線に乗って帰ってきたとか、小机まで歩いて汽車に乗ったとか。どこへ行くにも歩いていくしかなかった。その後246号の開通、東名高速道路の開通、当時市ヶ尾近くにインターチェンジを要請していたが、却下。それでバス停を要請した。これは東名江田のバス停となった。ずっと後になって青葉インターチェンジが出来た。246号と東名で江田城跡近くの古い遺跡、大きな屋敷跡、静かな森、清水なども全て無くなってしまった。小黒地区では徳江さん人参が名産品、明治天皇、大正天皇が葉山の御用邸に来られたときはその人参を献上に伺ったとか。

懐かしい思いがほのぼのと描かれている。何処かで忘れてしまった風景が浮かんできます。歴史家ではないので、時代考証的な堅い感じではなく、昔話としてアバウトに散発的に出てきます。狐、兎、狸、蛍が住む里の雰囲気、どの農家も蚕を飼っていた。農村の雰囲気が漂う話が多い。

本書より
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剣神社
由来
鎌倉時代、ここのそばを鎌倉街道が通じていた。その頃、奥州の炭焼き夫が毎年、馬の背に炭をつけて、はるばる鎌倉の刀鍛冶に届けていた。非常に良質な炭なので、お陰で名刀が鍛えられると喜んで、一振りの直刀を贈った。炭焼き夫は喜んで、懐中深くしまって帰途についた。ちょうどこの丘の裏側、人里離れた泉谷(いづみやと)にさしかかったところ、暑さは暑いし、道中の疲れもでて小川のほとり、老松の木陰で眠り込んだ。そのとき松の梢に潜んでいた大蛇が、よき獲物とばかり、眠りに落ちた炭焼き夫を一呑みにと襲いかかった。
間一髪、懐から抜け出た直刀が、その大蛇のノドをさし、大蛇はのたうちまわってたおれた。九死に一生を得た炭焼き夫は、これぞ宝刀と、恐懼して現在地に祀った。それから里人の尊崇の的となった。

その後、こんな話も伝えられている。荏田の剣神社の神様と、元石川の神様の領土争いから不仲となった。剣神社の神様が宝剣をひっさげ、元石川の神様を追い詰めた。元石川の神様は狼狽して。丘の中腹まで飛び上がって難を逃れた。それからこの神社は、驚神社と呼ばれ、元石川の現在の鎮守さまである。
また一説には、元石川は万葉の頃から石川の牧(今のたまプラーザ駅一帯)と呼ばれ、良馬を飼育して朝廷に献じていた。当時里人は、馬を家族の一員とし、敬愛の心をもって生活していたので馬を敬う神、つまり驚神社だという。どうも後者の方が正しい見方らしい。