書名:杉山神社考
著者:戸倉英太郎
発行所:緑区郷土史研究会
発行年月日:1978/9/25
ページ:232頁
定価:
この本は昭和31年に発行された戸倉英太郎著「杉山神社考」を緑区郷戸史研究会によって復刻された本です。鶴見川流域に残る杉山神社、新編武蔵風土記稿(1810~28年)には橘樹郡(たちばなぐん)37社、都筑郡(つづきぐん)25社、南多摩郡6社、久良岐郡(くらきぐん)5社の計73社の杉山神社が記載されている。延喜式内社(927年)に旧都筑郡に唯一式内社として「杉山神社」が載っている。しかしその杉山神社が何処であったか?よく分かっていない。本司(本宮)は何処か?
戸倉英太郎氏が自分の足で歩いて一つ一つ今残る杉山神社を訪ね歩いた記録です。杉山神社研究のバイブルとされる書です。
新編武蔵風土記稿に記載された杉山神社の諸社はいずれも鶴見川流域にあり、その多くは鎌倉から室町時代にはすでに祀られていたと思われる。式内社杉山神社本社を勧請することによってがこのように増加した。そして記録も記憶も薄れてどれが式内社杉山神社本社か判らなくなってしまった。と思われる。この本では式内社杉山神社の有力候補と考えられているのが、①西八朔村(にしはっさくむら、緑区西八朔町)、②大棚村(おおたなむら、都筑区中川町)、③茅ヶ崎村(ちがさきむら、都筑区茅ヶ崎町)、④吉田村(よしだむら、港北区新吉田町)の杉山神社の4社を挙げている。そして著者の私見として茅ヶ崎村(ちがさきむら、都筑区茅ヶ崎町)を式内社杉山神社と比定している。
①西八朔杉山神社は社域が広く、立派、江戸時代に幕府から社領を貰っている。
②村人栗原恵吉等が儒者河田興に碑文を書かせて建碑した。(安政3年)
③忌部氏→杉山氏の系図が岸本氏のところに残っている。
④幕末の神道家斎藤義彦や、菱沼勇『武蔵国式内社の歴史地理』
とはいえいずれの説も決定的な証拠はない。これも古代ロマンを感じさせる話です。またこの杉山神社の祭神が1つではなく、諸社によって祭神が異なるのが面白い。多いのは五十猛命、日本武尊など。茅ヶ崎杉山神社は忌部氏の系図とともに天武天皇白鳳3年に安房神社神主の忌部勝麿呂が御神託によって、武蔵国の杉山の岡に高御座巣日太命(高御産日命)・天日和志命(天日鷲命)・由布津主命(阿八別彦命・天日鷲命の孫・忌部氏の祖)の三柱を祀った「杉山神社」としたことにはじまるというが信憑性は乏しいとされている。また戸倉英太郎氏以前に幕末の府中(ふちゅう)大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)宮司猿渡盛章(さわたりもりあきら)がこの杉山神社について調査している。西八朔杉山神社を比定しています。
この地域は考古学の発掘などによって、弥生時代の終わり頃から古墳時代まで、平安時代に一時住んでいた人たちがいなくなった時代(理由はよく分からない)があったようだ。延喜式内社に指定されていた杉山神社も衰微して捨てられてしまって延喜式内社としての格式も権威も領域も維持することが出来なくなってしまった。鎌倉時代室町時代になってようやくその地を支配した人、土豪の人などが祀り直した。この地域には大きな豪族、大名はいなかったのでどれも小さな杉山神社が残ってきたのではないだろうか?後世の氏族の盛衰によって神社、寺院などは埋もれてしまって、記憶も薄れてしまった。多分永遠の謎として今後も語り継がれる物語かもしれない。
ちょっと気になったのはその後緑区郷土史研究会が調査したところ「大棚根元考糺録」「茅ヶ崎忌部系図」が見つからなかったとのこと。
神明社:杉山神社考
http://www.shinmeisya.or.jp/rekisi/sugiyama_01.html
公益財団法人 大倉精神文化研究所 :: 第51回 杉山神社を探そう
http://www.okuraken.or.jp/depo/chiikijyouhou/kouhoku_rekishi_bunka/kouhoku51/
公益財団法人 大倉精神文化研究所 :: 第52回 杉山神社の有力候補
http://www.okuraken.or.jp/depo/chiikijyouhou/kouhoku_rekishi_bunka/kouhoku52/
公益財団法人 大倉精神文化研究所 :: 第53回 区内の杉山神社
http://www.okuraken.or.jp/depo/chiikijyouhou/kouhoku_rekishi_bunka/kouhoku53/