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歴史のある文明歴史のない文明

書名:歴史のある文明歴史のない文明
著者:岡田 英弘他
発行所:筑摩書房
発行年月日:1992/1/25
ページ:312頁
定価:2816円+税

日本文化会議が1990年秋に開催したセミナー、「文化としての歴史―歴史のある文明・歴史のない文明」の基調報告(岡田・山内・川田・樺山)と討論を収録した本です。
歴史とは何か?考えてみるとなかなか難しい問題です。時間と空間を把握しながら頭の中で考えたこと。したがって歴史を書く人の主観が入る。真実の歴史とか事実だと幻覚を抱いてはいけない。国の歴史は政治的であるし、イデオロギー的でもある。歴史と歴史がぶつかった時には妥協点は見つからない。日本の歴史と韓国の歴史に共通認識ということはあり得ない。不毛の議論がいつまでも続くだけ。
歴史のある文明と歴史のない文明というテーマを岡田氏が基調講演で述べて、対談した内容が纏めてあります。ここでも判りますが岡田氏には反対、反論する人が多いし、辛口です。でも本論のところでまともに議論できる人はいないように思った。重箱の隅つつきを終始しているように感じた。岡田史学の考えかたが遺憾なく表現されている名著だと思います。 私たちはどこから来たのか?今どこにいるのか?そして…。

本書より
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歴史という文化は、地中海世界と中国世界だけに、それぞれ独立に発生したものである。本来、歴史のある文明は、地中海文明と中国文明だけである。それ以外の文明に歴史がある場合は、歴史のある文明から分かれて独立した文明の場合か、すでに歴史のある文明に対抗する歴史のない文明が、歴史のある文明から歴史文化を借用した場合だけである。

たとえば日本文明には、668年の建国の当初から立派な歴史があるが、これは歴史のある中国文明から分かれて独立したものだからである。またチベット文明は、歴史のないインド文明から分かれたにもかかわらず、建国の王ソンツェンガンポの治世の635年からあとの毎年の事件を記録した『編年紀』が残っており、立派に歴史がある。これはチベットが、唐帝国の対抗文明であり、唐帝国が歴史のある中国文明だったからである。

イスラム文明には、最初から歴史という文化要素があるけれども、これは本当はおかしい。アッラーが唯一の全知全能の神で、宇宙の間のあらゆる出来事はアッラーのはかり知れない意志だけによって決定されるとすれば、一つ一つの事件はすべて単独の偶発であり、事件と事件の間の関連を論理によってたどろうなどというのは、アッラーを恐れざる不敬の企てだ、ということになって、歴史の叙述そのものが成り立たなくなってしまう。
(中略)
しかし、もっと大きな理由は、イスラム文明が、歴史のある地中海文明の対抗文明として、ローマ帝国のすぐ隣りに発生したことである。地中海文明の宗教の一つであるユダヤ教は、ムハンマドの生まれた6世紀の時代のアラビア半島にも広がっていた。ムハンマド自身もその影響を受けて、最初はユダヤ教の聖地であるイェルサレムの神殿址に向かって毎日の礼拝を行っていた。

中国の皇帝の歴史は、いかにも完備したもののように見えるが、実は核心に触れる部分がすっぱり欠落している。正史の窮極の資料である「実録」は、中央政府の公的な最高機関から皇帝に提出されて決裁を受けた文書に基づいて編纂されるものである。しかし皇帝の生活には私的な面もあり、実質的な決定手続ではそちらの方が重要であることが多い。例えば軍事は国家の最高機密であって、表の政府機関を通さずに決定される部分があるが、こういうことは記録に残らず、従って正史には記載されない。

中華人民共和国において中央軍事委員会が最高の権力機構であるのを見ても明らかな通り、皇帝の権力の真の基礎は常に軍隊であったが、完了が編纂する正史はそのことを無視し、あたかも官僚機構だけが皇帝制度を支えてきたかの如き叙述をする。これは実際の権力者である軍人が文字に縁がなく、自分の立場を表明する機会がないのと、正史は文人官僚が理想とする、世界のあるべき姿を叙述するものだからである。

歴史は基本的に、あるべき姿の叙述である。何が真実で、何が虚偽かの判断の基準は、どんな文明でも、そう信じたいという好み、趣味である。そのため複数の文明圏に跨った事件の叙述、解釈は、一致するほうが珍しくて食い違うほうが普通である。異民族の歴史についての中国人の記録が信頼出来ないのも、中国人の好みが独特のものであるためである。

中国文明における歴史とは、そのようなものである。もう一つの歴史のある文明である地中海文明での歴史とは、根本的に違う性格のものである。黄帝以来の正統の皇帝の歴史と、ローマ帝国を基準にして古代、中世、近代を区分する歴史とは、二つの異質の世界観に基づいた文化であって、本来異質の文化に属する記録を単純に混合しても、統一した世界史には成り得ない。東西文化の比較は、先ずこの根本的な違いの認識から始めなければなるまい。