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柳沢家の古典学(下)文芸の諸相と環境

書名:柳沢家の古典学(下)文芸の諸相と環境
著者:宮川 葉子
発行所:青簡舎
発行年月日:2012/2/29
ページ:936頁
定価:26,000 円+税

松蔭日記、楽只堂年録、福寿堂年録(吉里)他柳沢文庫に残る資料を分析、分類整理した本です。特に文芸、庭園、上屋敷、下屋敷、川越藩、甲府藩、大和郡山藩の歴史など詳しく述べられています。
柳沢吉保は師匠北村季吟(幕府歌学方)から古今伝授を受け、息子の吉里に古今伝授した。吉里は生涯2万首歌ったと言われている。また吉保を越える力量だったとか。吉保・吉里は側室の正親町町子の関係から正親町家、三条西家、二条家とも懇意にして、霊元院(霊元天皇)とも和歌の添削等で親しく付き合っていたことが伺える。

綱吉が吉保を寵愛して異例の出世を遂げた吉保、その生涯で仕事ばかりではない一面が見えてくる。また58回も吉保の屋敷に御成があった。では吉保の屋敷はどこに在ったか、また広さは、上屋敷はお城のすぐ隣、神田橋、常盤橋一帯。そこに御成御殿を建てていた。そしてその費用も莫大なもので、将軍から3000両、10000両の借金、隠退した時には15000両の借金があった。綱吉薨去で恩赦を得て1/3の5000両を返済した記録もある。今をときめく出世頭、でも内実は厳しいものがあったようです。晩年を過ごした六義園、今残っているのは庭園部分の1/3位だとか。名勝で有名な紀州の和歌の浦を移したとされる六義園、その建設の経緯なども年代別に詳しく考察されている。明治に入って一時三菱の岩崎の所有となった。そのとき屋敷部分を宅地として売った。その後東京市の所有となって今の六義園が残った。

浅草の乳待山にお上屋敷を拝領、浜松町の旧芝離宮恩賜庭園も上屋敷として拝領、また京都の御所近くの荒神口にも京都屋敷と出世と共に屋敷も増え、勿論家人も増えていった。絵図面付きで詳細に述べられている。吉保を嗣いだ吉里は大和郡山藩を拝領してその後明治まで子孫が受け継いでいる。吉保の娘婿の松平右京太夫輝貞は高崎藩主、将軍吉宗の寵愛を受けたとか。

古文書を翻刻(古文書を解読して活字にする)した資料が一杯載っている。ビジネス的に考えるとこんな本は絶対出せないような内容。でも歴史資料として第一級史料が一杯です。また著者柳澤文庫に20年以上通って古文書を紐解いたとか?最初は殆ど解読できず、一字づつ読んでいくことを覚えたとか。勿論柳澤文庫の学芸員、関係者。の協力もあって出来た大仕事という感じがします。素晴らしい本です。
冷泉家文庫も20年ほどすればこんな本が出来るかも。この本の上巻は新典社という出版社から出版されています。今回は青簡舎になっています。何故?ちょっと気になりました。また大学の講師などを務めながらこの仕事をする資金は夫の宮川尚武氏の支援のお陰とか?サラリーマンの宮川尚武氏の年休はこの仕事の為に費やしたとか?宮川家の内情が垣間見える面白さもあります。

長い長い本ですが、飽きずにじっくり読み進めることが出来る、読ませる本です。

読書メモ
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若の浦に潮滿ちくれば潟を無み 葦邊をさして鶴鳴き渡る
山部 赤人(やまべの あかひと)=萬葉集・巻六

歌道の系統は藤原俊成、定家に遡る御子左家から嫡流の二条家のほかに冷泉家と京極家に分かれたが、勢力としては二条家がもっとも力があった。この二条派は室町時代に、ふたつの流派に分かれ、ひとつは細川幽斎から古今伝授を受けた京都の公家などに勢力を持つ堂上派。もうひとつは同じく幽斎から古今伝授を受けた松永貞徳を始祖とする地下派。冷泉家は八代将軍吉宗が贔屓にしてその後勢力を拡大している。

久志本左京亮(都筑区ネタ 勝田町、大棚町)

此日、保山公(吉保)持病の癪積撥り、多日により、今日より久志本左京亮治療す
(福寿堂年録 第66巻)

*ここの久志本左京亮は常勝と思われる。万治三年(1660年)に十四才で遺跡を嗣ぐ。貞亭元年(1684年)五月、番医となり。同三年六月侍医に列し、同年十一月、御匙(将軍または大名の侍医、御殿医、おさじ医師とも)となり、翌月従五位下左京亮に叙任。稟米三百俵の新恩を得る。元禄八年(1695年)十一月、常憲院殿(綱吉)親筆の和歌及び「誠実」云々の語を賜る。元禄一四年(1701年)鶴姫(綱吉長女)麻疹の折、投薬の奏功により増封。宝永三年(1706年)、綱吉不予の折の投薬が奏功。武蔵国橘郡都筑郡において八百石加増、全て二千石を知行するに至る。同六年(1709)の綱吉薨去により、二月に務をゆるされ、寄合となり、享保元年(1716年)致仕、同四年死去。享年七十三才(「新訂寛政重修諸家譜」巻第千百七十八)

綱吉の寵愛を得た御殿医である。もっとも綱吉薨去にほど遠からぬ時に辞職しているから、吉保の治療に当たったときは、寄合であっったことになるが、綱吉時代からのよしみもあり、吉保にとっては気楽に治療を受けられる人材であったはず。