競馬学校教官の指導に寄せて

最後の訓練


 学校での訓練を終える前に、馬を評価して、それについて意見を述べられるようにしておくべきである。たいしたことのない者の影響を受けないように自信を持っておくためで、教官も生徒がそう考えるように仕向けなければならない。もちろん優れている騎手や、自分の技術を完成させるために有利だと思われる騎手を見たり、その技術を覚えたりしてはいけないというのではない。若い騎手が訓練の最後の仕上げまでたどり着けるとすれば、それは時間をかけレースの騎乗経験を積むことによってだけである。レースにいって馬群のなかでもまれていると、ひどいとか、大変だとか思ったりするだろうし、あるいは先行できない馬に乗ったときなど、前を行く馬の蹴り上げる砂が顔に当たって情けなくなるかも知れない。またときには、他の騎手の態度が怖じ気付いて見えることもあるだろう。しかしやがて、特別な騎手に対して特別な尊敬の念を抱くことになり、だれが友達か、またごちゃごちゃしたなかで、頼れるのはいったいだれか、ということも分かってくる。そして優れたナヴィゲーターとなるべき騎手を見つけ出し、追走するときには彼らのうちのだれかの後ろにつこうとするだろうし、もしそれが成功すれば、今度は彼自身が騎手仲間から尊敬されるようになる。
 若い騎手はなによりも、競馬の特質に詳しくなり、それとともに馬を見る目に磨きをかけ、その馬の長所と欠点を理解すべきである。間違いをするかも知れないが、そこから教訓を得るだろうし、負けたときなどはときどき、世界中にだれ一人として友達がいないと思うかもしれない。経験を積むには時間がかかるが、これに対して教官は、レースにおいて起こり得るいろいろな場面や、若き騎手を待ち受けている落とし穴などをかいつまんで教えることによって、いくらかはその時間を短縮することができる。じっさいその話によって、より早く競馬を知ることができるので、生徒はどんなに熱心に耳を傾けることだろう。
 卒業してしまうと、彼のそれからの将来は、ある程度は調教師によってどれだけチャンスが与えられるかによって決まってくる。普通の人間と同じように調教師も、いろいろな人がいるし、彼が調教している馬主についてもそれはいえる。なかには、若い騎手には騎乗する機会をなかなか与えない調教師もいるが、そうではあっても間違いだとはいえない。騎手生活の最初を飾るだけのいい馬が、彼のもとにはいなかったのかもしれないし、馬主が、自分の馬にはもっと経験の豊かな騎手を乗せるように主張したのかもしれないからである。だが若い騎手を、単に調教用の騎手としてしか考えず、競馬場で騎乗するチャンスを与えようとしない調教師もたしかにいる。反対に若い騎手が、乗り方も上手くないし、仕事もきちんとしないならば、もちろん成功することは期待できない。それでも学校を卒業するときには、そこにいた多くの人々、とりわけ教官は、彼の性質と能力を非常によく分かっていたはずで、それゆえ調教師のコメントのなかで、若い騎手が進歩していないなどといわれると、学校時代に彼を完璧にしようと一生懸命に育て上げた者は、その言葉に納得することは簡単には出来ないだろう。
 

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