資料からの翻訳(訳: 川村史記)連載
(連載第17回)
第2章 教育の手法(その2)
ギリシャ文学に強い関心を寄せ、学習することに意欲的であった彼(バトラー氏)のような人間からしてみれば、こうした授業運営はおおいに責められてしかるべきです。勿論、生徒達は独力でその戯曲を読み終えることができたかもしれませんが、中途半端に終わった授業の後で、引き続きそれを読むことは楽しくもなかったでしょうし、興味も薄れていたにちがいありません。当時、米国における大学の学期は約14週間ありましたから、教師は受け持ちのクラスに関して、1週間に100行の読書計画を立てることができたはずです。ところが、バトラー氏のクラスでは、1週間に平均17行しか読めなかったことになります。一体何故、授業スピードがそんなにも緩慢で、1000行以上もやり残してしまったのでしょうか。教師が翻訳にほとんど時間を割くことなく、解説的な講義に多くを費やしたからでしょうか。いやそうではありません。その教師は戯曲の意味について論じたわけでもなく、偉大な詩人であったその戯曲作家の業績について語ったわけでもなかったのです。読み残しが多かったのは、教師の偽らざる興味が、文法と文章構造に片寄っていたからです。つまり、彼がギリシャ語研究の真髄について、なんらの関心もなかったことは明らかです。
ところで、文学の教師達は特に、自らが愛する課題部分に長い時間をとる傾向があります。しかし、そうした愛情の注ぎ方は別に問題ではありません。最もすぐれた授業のエッセンスは、講師が自分にとっての最重要課題について講義する際の、予期せぬ話(いわゆる、筋道から少し脱線した話)なのです。このような話へと発展することにより、生徒達は教師が自分達に紹介してくれる彼の研究や研究の動機に触発され、その科目が好きになります。
そして、教師が生徒達との心を通いあわせ、理解を深めることができれば、生徒達は教師の一語一句を享受し、学び取ることができるのです。ですから、教師の熱意と生徒達が理解する許容範囲で、時間を割いた長話も行う必要があります。しかし、翌日あるいは翌週には、授業全体の調和がとれるように体制を立て直し、やり残しているところのことを解説し、生徒達がその部分を理解しているかどうかを確認しなければなりません。
ところで、学習の下支えとなる要件の一つは目的意識です。生徒達にその学科を学ぶ意義を理解させるには、学期に行う授業の全容を立案しなければなりません。そして、その授業計画を生徒達に説明するのです。この際、ある教師は学習する要点をかいつまんで話すだけかもしれませんし、別の教師は講義の要点をタイプしたレジュメを渡すかもしれません。
こうしたオリエンテーションは、講義の論理的展開を一つの構造にまとめるための工夫で、時間の割り振りに沿ったものではありませんが、生徒達はこうした授業計画を学習することで、欠席したりした場合に、自分が何処の部分を聞き逃したかをチェックすることができます。
なお、芸術、文学、言語、哲学、歴史、政治等の分野を研究するに当たっては、学ぶ内容を一週間単位で四角四面に割り当てても、生徒達の興味が失せるばかりです。こうした学問を教えるには、議論の時間を確保する必要がありまする。しかし、科学や法律、薬学といった分野を教える場合は、時間をしっかりと設定した授業計画が重要になります。
(つづく)