トルコ旅行記9 【イスタンブール・カッパドキア旅行記】



第9話
1997年7月9日 第5日目 ウフララ渓谷編

 

【ウフララ渓谷の韓国人観光客?】

 さて次は「ウフララ渓谷」だ。車で移動して着いたのはグランドキャニオンのミニチュア版のような渓谷だった。しかし実のところ、ここに何があるのか事前の情報は全くなかった。そもそもここの見所は何なんだろう? そう思いながら、まずは渓谷の上から景色を眺めてみる。しかし、大した渓谷ではなかった。高さもそれほどでもないし、面積もそれほどでもなさそうだし、川も大きくはなかった。小川のような感じだ。ただ、川の両側にはたくさんの木が生い茂っていた。木の少ないこの地方にしては珍しい光景かも知れない。渓谷に関しては日本の方に軍配が上がると思う。でも写真だけは撮っておこう。

 渓谷の上からは僕らの他にもたくさんの観光客が思い思いに景色を楽しんだり、写真を撮ったりしていた。どのツアーも、この場所から景色を眺めることになっているようだ。写真も撮ったことだし、そろそろ車に戻ろうかなと思ったとき、ふと一組の若い東洋人カップルが目に止まった。なぜかと言えば、二人とも「韓国メガネ」をかけていたからだ。いわゆる「ネコ目型」というやつだ。香港人という可能性もあるのだが、顔つきからして大韓人であるのは間違いなかった。匂いがするのだ。トルコに来て初めての韓国人、第一韓国人だ。

 声でもかけてみようかと思ったとき、そのカップルが不意に英語で話しかけてきた。

「すみません、写真を撮っていただけませんか?」

 ううむ、これは韓国人に間違いない。僕は軽くうなずいて写真を撮ってあげることにした。ポーズを取る二人。

「はなー、とぅるー、せっ」

 韓国語で声をかけると、少し驚いたようだった。男はカメラをもらいに来ながら、日本語で話しかけてきた。

「あなたは・・・・日本・・・人ですか?」

「ねー、くれよ」(ええ、そうです)

「おお、日本語で話しかけたのに韓国語で答えられてしまった」

 彼はかなり驚いたようだった。僕が日本語で久保としゃべっているのを見ていたようで、日本人だと思っていたからだ。(実際そうだけど)

 女性の方は日本語が喋れないようなので韓国語でいろいろ聞いてみた。男性の方は高麗大学のロシア語学科に通っている大学生とのこと。日本語も少し出来るらしい。そして、「あなた達夫婦?」と聞いてみたら、実は二人とも大学生で、まだ結婚していないとのことだった。ううむ、韓国人でも婚前旅行をする時代になったのか。そうかそうか。速度違反(出来ちゃった結婚を韓国ではこのように言います)しないようにして、頑張って欲しいものである。 

 そして車に乗り、少し走ると「渓谷の入り口」が見えてきた。ここから渓谷を散歩するという。1時間ぐらいぶらぶらと歩いていくとのことだ。因みに位置関係で言うと地図を見れば分かるとおり、渓谷は大まかに言って南北に走っている。それを南から北に向かって歩いて行くわけだ。そして歩いていく中で遺跡などを巡っていくのだ。


【川岸を歩くツアー】

 車を降り、駐車場から階段を下りていく。まず渓谷の一番下の川が流れているところまで下りていくようだ。それにしてもずいぶん下の方まで下りていかなければならない。

 延々と続く階段を下りきると、その渓谷の一番下にでた。川が流れているのが見える。しかし、かわいらしい川だ。そしてその川の両側には道が付けられていて、散歩やハイキングなどが出来るようになっている。僕らの他にも、各種団体がたむろっていた。

 ところで今回のウフララ渓谷に関しては、少しハードだということで、ガイドのアリのお父さんは参加していなかった。アリ、僕、久保の3人だった。

 アリは「今から、アドベンチャーツアーの特別コースに行きます」と言い放つと、いきなり川岸にあった「大きな岩」に登りだした。道のないところを進みだしたのだ。おいおい。そして、岩から岩へジャンプしながら進んでいく。僕らもついて行くが、これは女性には厳しいコースかも知れない。子供も無理かも知れない。というか、元気な青少年以外は、ほとんど無理なコースだ。僕らの年齢でも上限近いかも知れない。

 岩を伝いながら進んでいくと、前方に洞穴が見えてきた。教会跡のようだ。アリを先頭に中に入っていくと、壁やら天井やらに「ギョレメ野外博物館」で見たような壁画が描かれていた。天使やキリストの像だ。こんなところにも生活の跡が残っているとは興味深い限りだ。急な階段を上がって2階に出てみる。2階の窓から外を眺めてみると、生い茂った木の先に川が流れているのが見えた。アリが下から写真を撮ってくれた。

 そこから先はちゃんとした道がついているようだった。アリを先頭にずんずん進んでいく。所々に遺跡のようなものが見えるが、特にどうということはなかった。これは要するにピクニックなのだ。そうやって歩いていきながら、アリ自身の話を聞いてみることにした。アリは僕らから見るとおじさんに見えたけど、30歳そこそことのことで、ちょっと前まではプロサッカーの選手だったそうだ。通りでがっちりとした体つきをしているわけだ。今でもトレーニングを続けているらしい。外国に出かける機会が多かったことから、英語も達者になったようだ。そして、このカッパドキアで生まれ、カッパドキアで育ったそうだ。プロは引退したけど、故郷で第二の人生を始めたわけで、何だかうらやましかった。

 アリは道端に生えている木の枝を折ると、それをナイフで削って即席の笛を作ってくれた。子供の頃からそうやって遊んでいたそうだ。なかなかの出来だ。そしてその笛をピーピー鳴らしながら歩いていると、警官に怒られている子供達に出くわした。何を怒られるのだろうと思って聞いてみると、この川で泳いでいたためらしい。遊泳は禁止になっているとのことだ。

 

 そしてさらに進んでいくと畑などが見えてきた。生活の匂いがする。そして川で洗濯をしているおばさん達もいた。それから小さい女の子が裸で泳いでいたけど、僕らが近づくと急に胸を押さえて逃げていってしまった。小学校低学年になるかならないかぐらいなんだが・・・。日本では平気な年頃なのに、やはりイスラムの関係なのだろうか?

 そして僕らも、少し水の中に入ってみることにした。靴下を脱いで、足の先を水の中に差し入れてみる。ううううっ、冷たい。ほてった体に気持ちいい。

 体をクールダウンしたあと、再び歩いていく。すると駐車場が見えてきた。車が何台も停まっている。そしてその駐車場を超えて進むと並木道の先に小屋が見えてきた。レストランのようだ。ここで昼食を取るらしい。

 そのレストランで、先回りしていた運転手とアリのお父さんの2人が座って待っていた。アリのお父さんは、相変わらずの何とも言えない味のある笑顔で僕たちを迎えてくれた。


【トルコの魚料理?!】

 レストランは屋根だけしかない野外式(?)で、すでに欧米人観光客で賑わっていた。メニューは魚か肉かのどちらかと言うことだったので、魚をお願いすることにした。というのも、トルコに来てからは「シシケバブ」とか「アダナケバブ」とか「ドネルケバブ」とか、とにかくケバブケバブで、肉料理ばっかりだったからだ。トルコの内陸部で魚を食べるというのは、多分珍しいことなのだと思う。

 とりあえずビールを注文すると、いつもの「エフェスビール」が出てくる。アリはイスラム教徒だからか、コーラを飲んでいた。そして久保と乾杯した頃に魚料理が出てきた。

 魚の名前はよく分からないが、とにかく川魚のフライだった。頭からかじってみた。なかなか美味しい。久しぶりに魚を食ったので、むしゃむしゃと食ってしまった。そしてしばらく休憩するとのこと。出発まで30分くらいその界隈をぶらぶらしてみることにした。

 このレスト・ンは、先ほど下ってきた川岸に建っている。川岸には先ほど通ってきた並木道が続いていた。そしてレストランの横には橋が架けられていて、向こう岸にわたれるようになっている。しかし川幅は20〜30メーターといったところで、それほど深くもなさそうだし、歩いてわたることも十分可能だ。その橋の向こうに家が見えたので、まずはそちらに行ってみることにした。

 その家はオルタヒサールのハッサンの家と同じように石を組んで作られたものだった。恐らく何十年、何百年前と、基本的な造り方はそれほど変わらないのだろう。タイムスリップしたような錯覚を覚える。本当に人が住んでいるのかと疑ってみたくなるのだが、屋上に洗濯物が干されているので、確かに住んでいるのだ。そしてそれが何軒もあって、集落を形成している。村の名前はベリシマというらしい。

 村のはずれには、ロバか牛かの糞を干してあったりする。(写真)乾燥させて燃料にでもするのだろうか? 自給自足の匂いがする。文明の世界もいいけど、こういうところに来ると、やはりこういうのもいいなと思ってしまうのだ。道端に腰を下ろしてその光景を眺めていると、子供達が通りかかった。「メルハバ」(こんにちは)と声をかけると、「メルハバ」という声が帰ってきた。うららかな光景だ。しかし、日差しがますます厳しくなったので、川岸の並木道の木陰に逃げ込むことにした。

 川岸まで戻ってみると、おばさんと子供達が川で洗濯をしていた。おばさん達はともかくとして、子供達は学校に行かなくてもいいのだろうか? 平日の昼下がりだというのに・・・。夏休みなのかも知れないが・・・。こちらに来て、とにかく子供達が野外で元気に遊び回る姿目に付くのだ。やはり子供は野外で遊ぶのが一番だ。はな垂れ小僧も含めて、こちらの子供は本当に子供らしい。日本の子供とはやはり違う。どちらにも一長一短はあるのだが、やはり子供は元気が一番だと僕は思う。トルコに来てからますますそう思うようになった。

 木陰に腰を下ろしていると、何だかうとうとしてしまった。久保はぐっすり眠っている。少し疲れが出てきたのかも知れない。

 そのうち集合時間になったので、先ほどのレストランに戻る。アリ達と合流して、車に戻った。


【シルクロード・・・キャラバンサライ】

 そこからオルタヒサールに戻る道すがら、YaprakhisarとSelimeというところを通過した。ここもゼルベやギョレメ野外博物館周辺のような「キノコ岩」っぽいものがたくさんあるところだった。先ほどの川の下流にあたるということだ。谷を挟んでYaprakhisarとSelimeが向かい合っている。モスクもあるわりと大きめの村もあった。車を降りて写真を撮ってみる。もうそろそろ今日のツアーも終わりに近づいてきたようだった。

 このYaprakhisarとSelimeから、さらに車でひたすら走る。そして車はいつしか、大平原の中の一本道を疾走していくのだ。アリの解説が入る。

「この道は実はシルクロードなのです」

「えっ? そうなんですか?」

「普通、シルクロードといえば中国を連想しますが、トルコはシルクロードの長としては、世界で2番目なんですよ。もちろん1位は中国です」

「・・・・・・」

「このトルコ国内はたくさんのシルクロードが走っています。この道も、昔は馬やラクダに乗ったキャラバン隊が進んでいた道です。マルコポーロも通った道です。今からそれらキャラバン隊が宿泊したり休憩した宿場にご案内します」

 何だか不思議な気分だ。今は舗装されて車やトラックが疾走するこの道も、ほんの数百年昔は隊商の列がゆっくりと進んでいたわけだ。そのキャラバン隊の空気を手でつかめるかのような錯覚に陥ってしまう。この原野の光景を、同じ風景をマルコポーロも見たのだろうか?

 間もなくして、その「キャラバンサライ」に到着した。大きな壁(塀?)に囲まれた、四角形の建物だった。宿場というよりは、小さな砦だ。大きさもそれほどではなく、50メーター四方といったところか。それが原野の中に、ぽっかりと立っているのだ。

 車を降りておみやげ物屋が並んでいる大きな門をくぐり、砦の中に入ってみる。すると高い塀に囲まれた中心部が、箱庭のようにな空間を作っていた。中心には背の高い建物が一つ建っている。そして周りの塀には、馬を休ませるところや、人間用の部屋などが造られていた。

 その中心の建物は二階建てになっており、屋上に上がると塀の外、周囲の様子が見渡せるようになっていた。その建物から降り、塀の周りの部屋に足を運んでみると、ひんやりとし・空気が体を包んでくれる。薄暗い空間にかつての賑わいのあとは感じられなかった。

 そのキャラバンサライをあとにして、再びシルクロードを走る。これで今日のツアーは終了とのことだ。しかし、それにしてもこのシルクロードの光景はすばらしい。果てしなく広がる平原に道だけが真っ直ぐ延びているのだ。あれほどかんかんと照りつけていた太陽も、少し西に傾きかけていた。昼下がりのドライブは、まるで夢の中にいるかのようだった。僕はどこにいるのだろうという空間的な夢と、僕はいつの時代にいるのだろうという時間的な夢の二つだ。次第に現実感が薄れていって、ただ、道の、進むべき方向をただぼんやり眺めている自分だけが残っていた。

 そのうち車はオルタヒサールへと戻ってきた。ホテルブルジュに着き、そこでアリ達と別れることになった。今日も楽しい一日だった。アリと、そのお父さんの笑顔に感謝の気持ちでいっぱいだった。


【ホテルにて・・・トルコ人の世界観】

 ホテルの部屋に戻り、しばし休憩する。さて今日はどこで夕食を食べようか? 久保と話し合った結果、ネヴシェヒールに出ることにした。明日は朝からカイセリまで移動するので、今日がカッパドキア最後の夜になるからだ。因みに明日はカイセリまでバスを乗り継いで移動し、午後の飛行機でイスタンブールに戻る予定だ。

 とりあえずホテルのフロントまで行き、キーを預ける。そして、フロント横の「くつろぎスペース」に行って、お茶を飲む。久保がコーヒー中毒なので、これは欠かせないのだ。そして、お茶を運んできたサキネちゃんから、ネヴシェヒールへの行き方などを聞いてみる。すると、「ばすがあったかなー・・・・」と頼りない返事なのだ。どういうことだろう? 仕方ないのでフロントの唯一まともに英語を喋れる(といっても、強烈なトルコ訛りで、しかもレベルは少し低い)シュレイマン君に聞いてみると

「・・・確か大きな通りにまで出ればバスがありますが・・・」と、曖昧な返事なのだ。

 バスの終わりの時間もよく分からないようだ。ま、バスの終わりの時間は、この手の国では全くあてにならないので、これは仕方ないことだ。考えられるのは、

 1.この(高級)ホテルの滞在者は、バスなど利用しない

 2.オルタヒサールの人は、バスを利用しない

 3.バスはあるが、要するに適当に走っている

このどれかなんだろう。とにかくよく分からないのだ。しかし分からないものをいつまでも聞いても仕方がないので、とりあえずバスが通るという、ユルギュップとネヴシェヒールを結ぶ大きな通りまで出てみることにした。

 そんな話をロビーでわいわいやっていると、いつの間にか従業員達が集まってきた。みんな田舎の純朴さが前面に出たような青年達だった。実は僕らと話をしてみたかったようで、シュレイマン君を通訳にしていろいろ話しかけてきた。まず日本がどこにあるのかという説明から始め、日本とトルコを往復するとどれくらいの時間と費用がかかるのかとか、そういう話をした。いつもお茶を運んできてくれるサキネ嬢は、「日本に行って働きたい」という希望を持っていて、「あなたの収入はどれくらいなのか?」などと興味津々のようだった。実際彼らに払われている年間の賃金は、僕のもらっている給料の15〜20日分くらいの金額だった。(写真 左端がシュレイマン君、右端がサキネ嬢)

 そういう日本に関する情報を話したあとは、彼らによるトルコの解説が始まった。よくトルコに関する本を読んでいると、「トルコ人は日本人に対して好意的」というような話が目に付く。はたして彼らもそうで、とても好意を持っているようだった。彼らによると、もともと元トルコ人はユーラシア大陸の中央部に住んでいて、それが東西に移動して行き、西に向かって小アジアに住み着いたのが現在のトルコ人。そして東に向かって、その東の端に住み着いたのが現在の日本人というわけだ。だから日本人とトルコ人は兄弟という理屈なのだ。もともと同族であり、トルコの仇敵であったロシアのバルチック艦隊を打ち破ったこともあって、日本にはとてもシンパシーを感じているようだ。ただ、そのわりには日本の情報があまり入っていない感じだった。イメージ先行型なんだろう。

 また彼らは「昔、トルコは世界の何分の一かを支配していた強力な民族」という自負を語り始めた。最初は何のことかよく分からなかったのだが、よくよく話を聞いてみると、なるほどとうなずける点が多々あった。まず大昔、騎馬民族であるトルコ系の人々はユーラシア大陸のほとんどを支配していたというのだ。確かに中国史に出てくる北方騎馬民族は、ほとんどがト・コ系だ。モンゴル系もいるが、全体的に見れば圧倒的にトルコ人だと僕も思う。なるほど。そして最近ではオスマントルコ帝国がかなりの部分を支配していたというのだ。確かにこれもそうで、最盛期にはアラブ世界の全体と、ヨーロッパの東半分を支配していた。現在の旧ユーゴあたりからブルガリア、ハンガリーの近くまでトルコ領だったのだ。オーストリアのウィーンでヨーロッパ軍と戦ったこともある。(これはトルコ軍が敗退)それが第一次世界大戦の敗北まで続いていたわけで、数十年前の話なのだ。

 そういう感覚で世界を眺めてみると、確かに面白い。現在のトルコ人はオスマン帝国時代にヨーロッパ人との混血が進んで、顔立ちなどは西洋っぽい感じがするのだが、民族としてはやはり中央アジア系なのだ。ソビエト連邦の崩壊によって、中央アジアにトルクメニスタンなどのトルコ系の国がたくさん誕生したが、それらの国の人々は広い意味でいうと「すべてトルコ人」ということになるのだ。それを当然のように話すシュレイマン君を見ていると、何だか面白かった。正直な感覚なんだろう。

 恐らく、この「もともと同じ民族」という概念を抜きにしては、ヨーロッパの感覚を理解出来ないのだろうと思う。旧ユーゴ紛争で、なぜ西欧社会がクロアチアの味方をして、ロシアがセルビアの味方をしたかは、やはりこの感覚から考えれば理解しやすい。その国の体制がどうか、とか、正義か悪かなどという感覚より先に、彼らにとっては自分たちに近いかどうかということが重要なのかも知れない。罪を犯した者でも、家族ならついかばってしまうというのと同じだろう。よくわからないが。

 

 

 

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