ブラジルを知るG 〜 現地語翻訳 〜 |
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海外に日系移民が渡って、既に1世紀を過ぎています。月日は流れ、日本語を次の世代に伝えていく事が困難な状況を迎えるに至って、海外真宗教団も現地語翻訳に力を入れざるを得なくなってきました。その中でのブラジルの現状を少し触れて見ましょう。 ブラジルは歴史的にポルトガルの植民地であった事から、公用語をポルトガル語としています。ポルトガル語は本国ポルトガルを始めブラジルやアジア・アフリカ諸国の約7カ国で使われていますが、その多様さ故に地域によってかなりの違いがあるようです。ブラジルも例に漏れず、500年以上の歳月を経て、本国とはかなりの違いが出てきているうえに、国土の広さゆえか言葉の統一性が余り無いのが特徴と言えます。 その中で、もともと日本で使われていた言葉を翻訳するにあたり、先ず頭を悩ます所は、どのような人を対象に翻訳するかと言う事です。未だ文盲の割合が2割を超える中で、一部の人しか分からない文章を使っても翻訳した意味が無いからです。原典の意図を出来るだけ伝えようとして文章を複雑化すると、それが結果的に読む対象を絞る事になってしまい、仏教を理解することが難しいという印象を与える事になるのです。 また日本に比べ、活字を読む習慣が余りないという事も挙げられます。つまり、現地語のほかの書物であっても、余り読まない傾向にあるということです。読んだとしても、それだけにとどまらず、その後の質問や議論で理解を深めていくと言うような習慣があるようで、現在翻訳されている経典等は後の議論を前提に翻訳される事が多いのです。これはラテン語を起源とする他の欧州圏でも同じで、その要因として、様々な民族から成り立っている上に、歴史的な交流が深いので、言葉の種類や文法が多様になりすぎて、一般に使われている言葉と乖離する傾向にあるからです。まして、欧州本国と違い国土が広く、移民で成り立つ国の場合は、言葉を統一する事も難しかったのではないでしょうか。 翻訳の参考になればと思い、カトリックの教会などに礼拝を見に行った事もありましたが、礼拝はラテン語で行っていました。また、お寺に来る日系人も、礼拝は日本語でと言う要望が多かったのも、そういう土壌があったのかも知れません。宗教的情操は言葉のみで伝わっていくのではなく、信仰とともにある人の行動が伝えていくのだと改めて思わされ、言葉だけに捕われがちな翻訳の作業に一つの救いになったような気がしました。 ブラジルへの移民が昭和四十年頃まであった事が幸いし、日本語の定着率が他の地域に比べ割と高かった日系人社会も、日本語が現地語に取ってかわる日がそう遠い将来とは思えませんし、現在も急速に進行中ではあります。しかし、日系移民以外の移民社会でも同様の問題は抱えていると思い、他の移民社会を覗いて見ますと、比較的移民の多いイタリア、ドイツ系の移民も、一世の後、数世代を数えるような社会にあっても、現地語と同じ様に出身国の文化、習慣、言葉を、非常に大事にしている事を目の当たりにしてきました。イタリア系はもともと言葉も習慣も似ていますし、一家族が多い事から、同化が他の移民と比べ進んでいると言われます。しかし、それが逆にブラジル社会に及ぼす影響も大きいので、互いに歩み寄っているとも言えます。現在、ブラジルで使われているポルトガル語に、イタリア語が多く含まれているのもその影響でしょうか。 そんな現状を目の当たりにしますと、ブラジルには他の地域と違った移民社会が構築されているのでしょう。ですから、ブラジルでの現地語翻訳も、他の地域とは違った意味合いを持っているのかも知れません。 |
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寺田 崇裕 |
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