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 『臓器移植法案』を考える
 ― 臓器移植法施行1年を経過して ―
 - その1 - 


  私たちPOSTEIOS会員には メーリングリスト (ML)という電子メールを使い、問題の意見や、情報の交換をする媒体があります。その利用例として、下記のやり取りを公開いたします。


 ◆臓器移植法が施行されて一年が経ちました。マスコミ等でもいろいろと取り上げていました。宗門では、数年前賛成反対両論併記の意志表示をしてはいますが、同法施行後には、宗門としての意志表示はなかったように思われます。施行3年後に法律の見直しが行われることを考えますと宗教者としてさらなる論議を積み重ねていかなければならないと思います。
   大本教が実施しているノン・ドナーカードの配布運動は、とても分かり易いと思います。ただし、臓器移植を待つ患者やその家族をどの様に説得していくのでしょうか。
   この法律は、宗教的な課題を人の死を挟んでドナーの立場、レシピエントの立場の両極で抱えてしまっています。
(K.T.)



 ◆先日、ドナーカードを持つことに関してある種のおそれをもつという意見が朝日の投書欄にありました。投稿は一開業医からで、ドナーとなることを了承していると充分な治療を受けられずに脳死にさせられる?不安があるというものでした。
   ところで、私は「ドナー・カード」「ノン・ドナー・カード」どちらのカードも携帯しています。ちなみに、「ドナー・カード」の方は、選択肢の3番目に、提供の意志はないというものがあります。
   既に、信楽先生(雲藤義道記念論集に論文掲載)、そして大谷大学の小川一乗先生(『仏教からの脳死・臓器移植批判』法蔵館)が、批判的立場から論究しています。確か、信楽先生の論文には、自分の遺産を遺言するときでも、法的な諸手続が必要なのに、自分の臓器提供という生死の問題に関わる極めて重要なことに対してカードにマルバツを付けて決定されてしまう安直さを問題にすべきと指摘されています。
   また、インフォームドコンセントの問題、密室での脳死決定、病院における現実問題として医師と患者家族の人間関係に基づく力関係など、日本社会での科学(すなわち分科して考える姿勢)や経済性(役に立つかどうかという効率性をもとにした判断)という世間的な発想から生み出される問題点は、充分に大きいと思います。
   「先進国」の中でも日本のみが臓器移植に対して消極的であるという現実が生まれる」背景には息をし、体温を持ち、意識をもつものを死という状態とは異なると明確に分けた仏教的な発想が人々の深いところに影響しているのではないでしょうか。
   仏教では、どんないのちも平等であると認識するはずです。そこに、役に立つ、立たないとか、尊い、卑しいという差別を持ちません。ならば、今、まさに目の前で死につつあるいのちも、生まれつつあるいのちも、どんないのちも平等であるという原理から、死につつある、しかし、死んでいないいのちを死んだことにして、臓器を取り出して殺すことを認めては共に深い罪をつくることになるでしょう。
   かつて、戦争という誤った政策を遂行することによって、人々に「鬼畜米英を殺せ」と(多分)本気で考えさせた時代があり、それに問いを持たなかった既成仏教教団は為政者と同じ方向を進みました。今、脳死を人の死と先取りして、「早く誰かが死んでくれないか」と人々に思わせる政策は、いのちに背くものでしょう。
   もっとも、政治というものは、いつでも役に立つものとそうでないものを差別し、そこから展開していきますから、それをしっかりと見届けることが常に仏教者だけでなく有権者に義務として問われているのでしょう。
(H.S.)




 ◆臓器移植の賛否に関する論議は、最終的には感情論に帰結してしまうような気がします。いつの時点でも、移植医療に頼らなければ助からない人がいるのです。そのような患者や家族の前で反対意見を述べることはなかなかできることではありません。そして逆の立場に立つはずの「さしあたってドナーになる可能性のある人」は口をききませんから、当事者はおらず仮定でしか、ものを語ることはできません。感情論でははじめから勝負にならないのです。
   マスコミや政治家は、そのような団体からまともに圧力を受ける立場にありますから、日本でも、脳死による臓器移植はきっかけさえあれば一気に多くの医療機関で実施されることになると思います。
   しかし、悪くなった臓器を、他の健全な臓器と取り替えるという医療が、技術的には高度なのかも知れませんが、安易な医療に思えてなりません。ましてや、新鮮な臓器を得るために人の死を人為的(法的)に早めることは、倫理的にも許されないことのように思えます。
   脳死による臓器移植の氾濫は、人工臓器開発の著しいマイナス要因になることを危惧します。臓器移植法を時限立法に改正して、人工臓器の開発を国を挙げて行うべきではないでしょうか。脳死による臓器移植は、本来あるべきではない過渡的な医療との認識が必要なのではないかと思います。そうすれば大きな歯止めになると思います。
   感情論を受けてたつのはなかなか大変だと思いますが、大本教のように覚悟を決めることも必要だと思います。
   そこで、悩むことは、人工臓器の開発を待つと言うことは、今移植をすれば助かる(現に外国では助かっている人がいる)人を見捨てることになるという主張に、宗教者としてどう答えていったらよいかと言うことです。
(K.T.)




 ◆1、臓器移植そのものについて
   臓器移植はあくまでも次善の策であるべきです。では人工臓器かというとそれも決して良い治療法とは思いません。本来のその人の臓器を治癒させるべきなのです。移植医療は医学の進歩と言われますが、決してそうは思いません。
   技術の進歩で心がない。昔、「医は仁術」と言われました。でも今は「医は技術」という時代になってしまいました。ほんとうにこんなことでいいのでしょうか。

    2、脳死臓器移植について
   脳死臓器移植の問題はよく言われることですが、やはり臓器を必要としている側(受容者・レシピエント)が臓器を提供する側(供与者・ドナー)の死(脳死)を期待する点です。たとえレシピエントが誰がドナーかを知らなくても不特定多数の人の死を期待している、ということです。

   他にもありますが、これらが私の臓器移植に賛成できない理由です。
(H.Y.)


第2部へ続く

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