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『臓器移植法案』を考える - その2 - |
- 第2部 - |
◆臓器移植問題の最大の難点は自分が当事者になることが想定しにくいということです。脳死になる可能性はあるとしても、移植を受けるかどうかの判断を実際に迫られる可能性は非常に少ない。 移植の是非を論じることで是者、もちろん移植医ではなく、患者本人が悪者になってしまう否定論はちょっと違うような気がしているのですね。 どうもこのML(メーリングリスト)上では臓器移植に反対の立場の御意見ばかりのようですが、わたしは臓器移植は認められてよしと考えます。 自分の臓器を与えたいと望む人がいるのだから。 私はこのMLに載った臓器移植反対論の概ねに賛意を持ちますが、それは「臓器移植法」の単純な反対には直結しません。私は法律は可能な限りいろいろな可能性を許すものであって良いと考えます。その上でこそ、私の選択の根拠が明らかになるのでしょう。 臓器移植推進論者に現行の移植法が極めて評判が悪いのは、移植を妨げる形でしか法が機能していないという点です。しかしこの法律は素直に解釈すれば移植をさせないようにしているわけでは勿論なく、提供者の明確な意思表明を求めているわけですね。しかしそれがまだ日本の風土に馴染んでいないということなのでしょう。それは、提供する、という態度だけでなく、提供されることを拒否する、という態度もまた同様です。自らの立場を鮮明にすることが、この風土には培われていない。 つまり臓器移植で問われるのは自分の生のいただき方とでもいいましょうか。自分の生のあり方についての自己決定、あるいはグランドデザインについてだと思います。 K.T.さん wrote: > そこで、悩むことは、人工臓器の開発を待つと言うことは、今移植をすれば助 >かる(現に外国では助かっている人がいる)人を見捨てることになるという主張 >に、宗教者としてどう答えていったらよいかと言うことです。 宗教者としての答を出すべき、という期待に応えたいという欲求は自制してもいいのではないかと思います。しかしあくまで原則は矜持して。 眼の前に命をながらえる可能性が(物理的にも経済的にも)あって、なお、それを自分が選択するか否か。その線引きは論理では決して示せるものではありません。その選択の後に、人は選択したという事実を背負った道のりが開かれるのでしょう。その道のりの随伴者になれる人がいたら、その人は宗教者と呼ばれるのかもしれません。 (M.C.) |
◆「この子といのちを変わってあげることができたなら」との母の嘆き。しかし、それはかなわぬこと。私たちの力及ばぬことであり、受け入れていくしかありませんでした。 ところが現在では、臓器移植という一縷の望みが生じました。昨日行われました生体肺移植は、母の愛、姉妹愛をいのちを削る行為によって実行されたのです。 私は、この話を美談としてとらえることができません。この度の生体間移植は、脳死による臓器移植が進まない中で、やむを得ず実施された緊急避難的措置であると言われています。そこには医療者側の移植医療の現状に対する焦りが感じられるような気がしてなりません。重い病に陥った娘を何とか救いたいという親であるならば誰でも持つであろう感情を、移植医療の進展のために利用した点がなかったとは言い切れないような気がします。重病の人を救うために、本人の了解があると言っても、健康な人の体を傷つける権利が医師にあるかどうか疑問です。場合によれば傷害罪の立件も可能なような気がします。 「だからこそ脳死による移植医療が必要なのだ」と言われそうな気がしますが、反面、人の体を切り刻んでつなげる医療の異常さをはっきり教えてくれているようにも思えます。 患者には、現在行われているより「高度な医療」を受ける権利があると言われます。患者にとって最善の医療であれば、多少の問題は目をつぶるべきなのでしょうか。 (K.T.) |
◇以上は、ポストエイオス研究会会員のメーリングリストに載った臓器移植法施行1年にあたっての意見の一部です。臓器移植反対の傾向がやや強いですが、迷いや悩みもあります。これからも論議を深めていきたいと思います。 (事務局) |
おわり |
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