仏教ちょっと教えて |
006 「自力と他力」について 教義編 |
「自力と他力」のお話を聞きました。「浄土真宗では、自力はいけない、他力でなくては」と。それでは、お仏壇にご飯や、お花を供えることも自力になってしまうのではないでしょうか。 「自力と他力」ついて教えてください |
「自力と他力」とは、教義的には「往生の因縁について、自力と他力あり」と示すのです。それは浄土往生の因縁を 1.自分の力で諸行を修してその功徳を廻向して往生しようするのを「要門」(諸行自力の法門・・第19願の立場で、諸行を修行してその功徳をお浄土に生まれる因縁にしようとする立場を指します) 2.自分の意志で、称名を修してその功徳で往生しようとするのを「真門」(自力念仏の法門・・第20願の立場で、お念仏を称えて、その称えた功徳によってお浄土に生まれる因縁にしようとする立場を指します) 3.阿弥陀如来の本願力一つで往生させていただく身であるとするのを「弘願門」(他力念仏の法門・・第18願の立場で、阿弥陀如来の名号一つでお浄土に生まれる因縁が既に成就していると受け取る立場を指します) と、19願・20願・18願を真と仮とに、はっきりと分別されたのが親鸞聖人です。つまり19願・20願は自力であって「仮」、18願は他力であって「真」という宗祖の判定です。ですから「自力と他力」とはお浄土に向かい、悟りを開く方法にのみ使われた言葉で「宗学用語」なのです。 このように、自力・他力(仏力)は往生に関してのみ使う言葉なのです。すなわち、私たちの使う「他力」とは、3番なのです。しかし、何時しか「往生」が抜け落ちてしまい、自力は自分の力、他力は他人の力と言う誤解を生じてしまったのでしょう。 ですから、こういう質問が飛び出してくるのでしょう。 さて、ある方から、「親が強制的に私を横に座らせて『正信偈』をお勤めさせられたのですが、これも自力だったのですね」と言われたことがありました。 晩年の瓜生津隆雄和上が「真宗には、教義門・安心門・行儀門があってなぁ、この分際を忘れると、自力と他力が混乱してしまうぞ!」とおっしゃられたことがありました。 教義門とは、教相判釈(教判)で、仏教各宗に対して浄土真宗の一宗建立の意図と独自性を仏教の経典を拠り所として教義を深化・発展していく分野と言えましょう。極めて「宗学的な論理展開」が必然であると言えます。ここが煩瑣であると言われる所以ですが論理展開から見ると致し方のないところでもあります。 安心門とは、宗教経験即ち、「法味愛楽」をその中心に据えた極めて「宗教的」な分野であって、先述の「自力と他力」の明別をその特徴としています。真宗独自の「有り難い・勿体ない・お恥ずかしい」の二種深信を中心に据えるとも言えましょう。 行儀門とは、教義門・安心門の「前段階」とも言えるもので、浄土真宗としての宗教性への「心構え」とも言えるものでしょう。「阿弥陀さまの前では合掌しなさい」とか「お参りしてから、ご飯になさい」とか「仏様の前では正座をしなさい」とか「お寺に参って聴聞しなさい」。これらのことを通して私達は「お慈悲に徐々に触れて行くのでしょう。 そこで、どうして「・・・・・・・・・」と親は言ったのだろうか?と、真宗に親しんでいくのではないでしょう。 行儀門を「自力だからもうお仏飯やお花はお供えしない」とか、教義門を「自力のハカライではないか」とか「安心門だけ有れば浄土真宗はもう充分だ」と言うのは「乱暴な限定」と言えるのではないでしょうか。 また、行儀門は宗学では論じられなかったのですが、門徒の家庭や日曜学校で「お行儀」として躾けられたものでした。この「仏様に対する姿勢」は、自力・他力を学ぶ前段階の「真宗の作法」とも言えるものです。 このように「自力・他力」の本来の限定を考慮に入れて、「教義門・安心門・行儀門」を考えると真宗が身近になると言えませんか? |
藤田 恭爾 |