A: 年回法要は、十三回忌をつとめたら、三十三回忌まで法事をしなくても、たたりがあるかどうかというお尋ねです。ところが、そうおっしゃっておられる同じ口で、墓参りをしていれば、それで十分だと思うとおっしゃっておられるので、そこに見えてくる私たちの宗教的な感覚からお答えします。
年回法要やお墓参りは、亡くなったかたをご縁にこの私が仏教という目覚めていく教えに出会っていく宗教行事です。ところで、それらの仏事は、亡くなった人たちの為にしてあげるものでしょうか?多くの人々は、「えっ?葬式や法事は死んだ人のためにあるのではないですか?」と怪訝な気持ちを抱くことでしょう。現実に仏教は、死者葬送・祖霊崇拝であり、儀式としてのみ意味があるのだという理解が広まっています。しかし、釈尊は死者のために祈ったり呪文をとなえたことは一度もありません、あるいは死んだ人のためにお経を読んだことはありません。なぜなら、お経は、BGMではなく生きた人のために、どのように生きるべきかを説いた教えだからです。
もしこれに気づかなければ、仏教を誤解したまま偽りの姿として受け止めてしまっていたことでしょう。つまり、仏教が目覚めの教えにならず、お参りすることで自分の都合を満足させる姿となってしまっています。「ご先祖さま有り難うございます」となき人を祭ることで故人を大切にしているような気持ちになっていますが、その底には「つきましては、私と家族だけはいい目に会わせて下さい、たたらないで下さい」という下心やご先祖をたたるような迷いの存在におとしめている自分に目が向いていないのです。また、自分自身がそれによって自己満足しているだけで、実は生きているときに何もしてやれなかったという未解決の問題などを回避していることに気づかなかったり、目覚めることがないといえましょう。
先祖のために法事をするのでなければ、では、一体なんのために法事はするのだろうという疑問が生まれてくるでしょう。しかし、ここに法事の本来の意味を問いたずねることが成立するのでありましょう。もし、亡き人のご往生や仏法との出会いがなかったら、私は自分の自己中心の姿にも気づかずにいたということです。つまり、自己中心的な私たちは、自分の事は棚にあげてしまいます。都合のよいときは、自分の手柄であり、自分の甲斐性であると思いがちでありますが、人生は歯車のうまく噛み合っている時ばかりが続くのではありません。ちょっとでも、自分の都合が悪くなると、自分を問うことなく、日が悪かったとか、方角が悪かったとか、名前の付け方が悪かったとか、様々なものをその原因にしたてあげがちです。そして、あげくの果てに見て貰ったら、先祖が迷っているなどということを本気でいって人を惑わす言葉に、これまた本気でそれを信じ込み、亡き先祖を迷った霊魂やたたりの元凶であるかのごとくに思いこみ、或いはまた亡き人が浮かばれないなどと迷いの存在にして受け止めがちです。
しかし、法事というご縁を通して、私が本当に目覚めて、いのちを本当に深く大切に生きる道である仏教に出会えたことを思うとき、このことに気づかせて貰えたのは一体誰のおかげだったのでしょうか。普段はなかなか会えない親戚や知人とこうして出会え、中には仲が悪い人も一つの心になって合掌する素晴らしい場所を用意してくれたのは一体誰のおかげでしょうと思いをめぐらせてみたいものです。するとそこに、この一度限りの誰も代われないいのちであることを我が身をもって教えて下さり、しかも今も私を目覚めさせ続けて下さっている亡き方こそ、仏さま(目覚めていない迷いの人間を目覚めさせるはたらき)であったという感謝の気持ちが生まれ、そうした仏さまを迷った霊魂や浮かばれない存在であると考えてきた自分のお恥ずかしさに、下げろといわれなくとも自ずと頭が下がり、また合わせろといわれなくとも自ずと掌が合わさるのでしょう。
亡きお方は、私にとって人生の一番大切なことに気づかせて下さるみ仏さまであったと眼を開かせていただく尊いご縁を法事・法要というのです。そのことを僧俗ともに確かめていかないかぎり、法事は盛んに行われていても、それは真実に出会う仏法の事業とならず、単なる食事会、あるいは自己満足の世界に終わり、仏法は廃れて、自我を満たす生き方が社会に広まるだけになってしまいます。心したいものです。
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〔本多静芳〕
(『法話情報大事典』雄山閣より転載)
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