仏教ちょっと教えて 




020 お布施
 Q:  最近父親が亡くなり、お葬式をしました。しかし、お寺の付き合いの経験がなかったのでまごつく事ばかりです。中でも『お布施』の意味が良く分かりません。お経のお布施と、法名のお布施という違いがあるのでしょうか。また、決まった値段というものがあるのでしょうか。そうした事を教えて下さい。 

 A:
「仏法の方に、施入物の多少にしたがつて、大小仏になるべしといふこと。この条、不可説なり、不可説なり」
『歎異抄』第十八条

 この『歎異抄』のお言葉の意味は、お布施の多少によって大きな仏になったり、小さな仏になったりするということは言語同断であるということです。しかし、人間がこのように間違って考えてしまうのはなぜでしょう。本来、仏教という教えはこの世の価値観を絶対のものとせず、とらわれですよと相対化する教えです。しかし、迷いに目覚めず自己中心的な人間は世俗の価値観の一つである金銭という「物差し」で仏教のことも考えようとします。つまり金銭が多い方が価値が高く、少ない方が価値が低いという世間の価値観に縛られたまま、その物差しで仏教を考えようとするから誤解が生まれるのです。
 もともと布施とは、六波羅蜜という六つのパーラミター(悟りという向こう岸へ渡る行い)という仏道修行の一番最初に数えられるものです。布施はインドの言葉でダーナと呼ばれ、施すこと、与えることを示し、それを仏道の修行として実践するとは、自分がこだわり、とらわれていることから離れ、それを捨てることをいいます。つまり、自分の執着のもとを手離す具体的な行いを通して、いかに自分の執着が強いものであり、それから解き放たれることはいかに難しいかを身をもって実践することなのです。ときどき、一所懸命仏教を学んでいながら、頭の中だけでの学びを求め、知識だけを増やしながら、手を合わせたり、お念仏やお題目を称えたりする実践ということをせずに、どうも仏教が分からないと思い上がっている姿を見かけますが、仏教は決して理論だけを説くのでなく、実践も説くものであり、理屈ではなく宗教なのだということをお互いは確かめておきたいと思います。
 さて、お尋ねの件ですが、お布施は仏教徒にとっての仏道修行という宗教的な行為ですから、ものを買ったり、売ったりということとは異なるものです。当然のことながら、お布施はお坊さんがお経を読んで下さった労働の報酬、すなわちお経の読み賃でもありませんし、お坊さんが葬儀や法事に来て下さった出演料でもありません。ですから、お布施とは何かを買い取り我がものにするという経済行為ではないのです。
 「でも、お布施はお坊さんが貰っているではないですか」「坊主丸儲けだろう」という疑問があるかもしれません。しかし、現実にはお坊さんはお寺という宗教法人の職員として、お寺という組織から給料を貰っているので、お布施はお寺のご本尊さま(如来さまなど)の前に供えられ、お寺の基金に入り、そこからお寺の職員がたに支払われるという形になっているのです。ですから、お布施はお寺に対して仏教徒である信者さんが営む宗教的行為であり、そこから「お給料」というのはあっても「お経料」というのはないのです。もちろん、決まった金額などという料金などはありません。その金額を考えていかなければならないのは布施を行おうとする仏教徒であるあなた自身なのです。
 ところで、私たちは貨幣経済社会に生きていますから、先ほどもお話ししましたように、お布施もこの社会では宗教法人という組織の中で経済的な意味をもってくるものです。しかし、それはお寺の信者さんや仏教に対して篤い心をお持ちの方々の宗教的な志しのあらわれです。それによって、この素晴らしい教えが私だけのところに独り占めするのではなく、多くの人々に、これからの人々に伝わって欲しいという思いからお寺に運ばれるものです。
 ところが、いつの間にか、教えやお寺を自分のものであるかのように考え、自分の檀那寺の伽藍の大きさで世間のおつきあいの仲間(つまり、自分の属する世俗社会)に対しての優越感を味あうもののように受け止めています。そうした意識が、仏法の教える目覚めていく生き方をまったく見失わせてしまうということはもうお分かりのことでしょう。それは本来、世間の価値でなく仏法の教法や戒律をよりどころにして生きていくことを誓ったしるしである法名や戒名の意義を完全に無視し、お釈迦さまの教えに生きるものの平等性に反した差別性を生み出すような「長くて、偉そうな」名前を求める意識につながってしまいます。しかし、人々にそのような意識を生み出すような、今までの仏教とは何だったのでしょう。そのままにしていたら僧侶も在家信者も、人間や寺院やそして教えをも我がものにしていくことになるでしょう。
 あなたは、これからお寺とのおつきあいが始まるのですね。この素晴らしい機会に、お寺の住職や信徒のみなさんと本当の布施のあり方を、そして本当に仏教徒としての生き方を共に考えていただきたいものです。
本多 静芳
(『法話情報大事典』雄山閣より転載)


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