A: この質問を、私たち僧侶はよく受けます。それも、一年を通じていつでもです。
私は、はじめのうち、私たち僧侶に対する外交辞令、それも少し皮肉を込めて「お忙しいですね」と言われているのかと思っていました。しかし、しばらくして、それは違うということに気づきました。この問いを受けるのは、質問される方の関係者の通夜から49日ぐらいまでの間にほぼ限られているのです。
すなわち、身近な人の死に接し、人の「死」に関心が向く気持ちになっているということなのです。普段ですと、葬儀をされている家の前を横切ったとしてもすぐに忘れてしまいます。霊柩車とすれ違ってもそれが記憶に残ることはありません。しかし、身近な人の死に出会いますと他人の死にも関心が行き、その家族の悲しみにまで心を向けることができるのです。「最近、亡くなる方多いですよね」と問われますと数の多少の方にだけ関心がいってしまいそうですが、そうではなく、今まで見えなかったものが見えるようになっているということなのです。
人は必ず死ななければならないという厳然たる事実があります。しかし、そこからいつも目を背けて生きているのが私たち人間の常でもあるのです。諸行無常といいましても、人ごとで聞いてしまいます。蓮如上人の『白骨のご文章』に 「われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり」とあります。「われや先、人や先」、厳しいお言葉です。普段ですと「われや先」という言葉は聞こえてきません。しかし、人の死に心が向くときには、その言葉が素直にうなづけるのです。
お通夜や初七日のとき僧侶がご法話で、「この度は、厳しいご縁ではありますが、故人が身をもって人の世の無常をお示しくださっているのです」と話されているのを耳にします。人の死を突き放して考えている教条主義的なことばに聞こえるかもしれません。しかし考えてみれば、こちらから聞きにいかないでも、いつの間にか亡き人のご縁により我が心が開かれているのです。そのような時を大切にしていかなければなりません。私たちは、残念ながら、そのような心を長い間持続することができないのですから。
小林泰善
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