A: 先日、あるご門徒の方から、
「法事の時、住職さんが『声を出してお念仏を称えなさい』と言われますが、気恥ずかしくてなかなかできないです。心の中で称えればいいんですよね。同じことですものね」と話しかけられました。私は、すぐに、
「親鸞さまも声を出して称えるように申されています。はじめのうちは気恥ずかしくても、なれてしまえば平気ですから」
と答えました。すると、
「でも、先日新聞に仏教学者の方が、自分がお念仏を称えていることに気がついたら称えるのをやめると書いてありました。無理して称える必要はないのではないでしょうか」と、言われるのです。私もその記事を読んだのですが、高名な仏教学者の
I 先生の追悼の記事にそのようなことが書いてあったのです。
非常に手厳しいなと思いながら、「それではあなたは、
I 先生のように自然にお念仏が出てくるのですか」と聞きますと「出てこない」ということでした。「それならば、なおさらのこと声を出してお念仏を申してください」と申し上げました。その方との会話はここで終わってしまったのですが、わかっていただけたかどうか不安が残りました。
I 先生が、「自分がお念仏を称えていることに気づいたらやめます」と言われているのは、お念仏は阿弥陀さまの御はからいで称えさせていただくものであり、自分が意識して称えたならば私のはからいが混じってしまうという信念からきた言葉であろうと思います。他力に徹し、常にお念仏の生活をされているからこそ出てくる言葉なのだと思います。
お念仏は、声に出してこそ聞こえてくるのだと思います。私が称えたお念仏であってもそれは、阿弥陀さまの働きそのものなのです。そのお念仏を私が聞かせていただくのです。お念仏は呪文ではありません。称えることによって、仏さまに訴えかけていくというものでもありません。そこには力みなどは必要ありません。阿弥陀さまが「私がおりますよ。安心してください」と呼びかけてくださる声が聞こえてくればよろしいのです。
心の中で称えるお念仏も、理屈が通っているとはおもいますが、心の中のお念仏は、残念ながらなかなか聞こえてきません。自然に称えるお念仏が、いつの間にか私の耳に届いてくる。そのようなお念仏が称えられるようになれればと思います。そのためには、やはり気恥ずかしさを乗り越えて、声に出してお念仏を称えるようにいたしましょう。そして、お念仏のみ教えを聞けば聞くほど、いつの間にか、お念仏の方から私の耳に聞こえてくるようになるのです。
小林 泰善
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