仏教ちょっと教えて 




027 差別に無関心?
 Q:  仏教は、一切のいのちは平等との立場だと思います。しかし、仏教者の中には差別の問題に無関心な人もいるように思われるのですが?

 A:
 「青色青光黄色黄光赤色赤光白色白光」『仏説阿弥陀経』

  
僧侶の研修会で、「なぜ平等の精神を説いた仏教教団の僧侶から差別発言がなくならず、むしろ今もって続いているのだろうか」「何年も同朋運動をすすめてきた教団で、なぜこのようなことが発生するのか、その原因と問題点を私たち教団人一人ひとりが、自分の問題として見なおし、明らかにしなければならない」「えてして、差別問題を他人事として、観念的、しかも抽象的にしかとらえていない」ということが話し合われています。

 過日、僧侶と門徒の合同研修会の時、「差別の研修を受けるとろくにおしゃべりひとつできなくなるな。『五体満足でよかった』という言葉を使ったってしょうがないじゃないか」というある住職の発言に出会い、胸をかきむしられ、強い憤りと怒りを感じました。それまでの間違った仏教の学びが見事なまでにその頑なさとなってしまい、差別の問題に対し日常の具体的な生活実感として、なんら意識を目覚めさせてこなかったという証拠です。しかし、そこにあぐらをかいていれば差別の側に立ち続けます。

 一方、差別は知識があればなくなるという誤解もあります。しかし、「自分の問題とする」ということは、今までの研修するとか学習するという段階から、差別をどう受けとめるか自分がどう実動するかとなる事であり、自分が差別に対して怒りを持つという事です。その怒りを差別撤廃運動の実践の軸として行動の第一歩を踏みだすことです。どんな小さなことでも自らが主体となって前進することです。

 仏教系女子大学で仏教を学んだ学生が次のように語っています。
  言葉は意識(自己)の反映であり、もし差別的な言葉を口にしても、素直に間違っていたと気づき、謝れることでお互いが「楽」になり自ずと柔らかい言葉が生まれると学んだ時、障害者差別に対して少しの知識を身につけて差別用語を口にしないことだけしか考えてなかった自分に気づきました。しかし、それでは何も改められず、ただ頑なな言葉しか生まれないと思いました。それよりも、ふと差別語を口にした時、素直に自分の誤りに気づき改めることの方が大切であると気づきました。
 これは社会の変な常識が作る「世間の目」と他者として自分を見つめる「如来さまの目」の違いに通じると思いました。世間の目は自分に対して一方的な価値を強いるものであり、そこからは自己の発見と改革は生まれず、逆に自己を無にさせ、世間との同化を強要するもので、差別用語を話さないことだけにとらわれている姿と同質です。しかし、他者としての如来さまの目は自己を冷静に考えることができ、気づきが生まれ、改めるといった自己の変革が生まれます。自己の誤りに気づき、素直に謝りの言葉がでる姿と非常に近いものを感じました。
と、とても深い学びに教えられることです。

 インドは今でも紙幣に二十五種の言語が印刷されていますが、その中で民族も言語もあらゆる違いを超えて共に救われる道を生きたのが釈尊です。
 愈ヨン子さんは親鸞さまによって仏教に出遇って皆がいきいきとして、私がチマ・チョゴリを着ていることが普通で気負うことなく、見ているあなた達も普通に見られるバラバラでなお一緒が可能な世界(『阿弥陀経』のように色々な人がそれぞれに輝いている世界)があったと思い立つ心を頂いたと言っています。愈さんが会った帰化した朝鮮の少年は父から「日本は壁があり、ハンディがあるからお前のために帰化した」と言われた時、「僕のためにしたんなら元に戻して欲しい。親父は、壁があるから壁をこえろと言うんやけど、壁を越えたら壁のこっちにはまだ辛い人がいっぱい残るやろ、自分一人で壁を越えたところで僕は幸せになられへん」と言ったそうです。彼が十七歳の時です。「どうするん?」と聞くと「壁は越えたらあかん、壁は切り開いていかなあかんのや」愈さんは、生涯この言葉を大切にして生きていこうと言われます。

 親鸞さまもそうだったのではないでしょうか?一人で越えたのでは幸せになれない自己に出会われたのではないでしょうか。女性も子供も老人も障害者も差別されているあらゆる人々も共に救われていく道でこそ自分も救われる。それが阿弥陀如来の「十方の衆生が救われなければ、私も救われたものとはいえないのだ」という願いとなっているのでしょう。

 最後にもう一人の学生の言葉を紹介します。
  自分に置き換えると差別をしていないとは言い切れないし、気づかず誰かを傷つけているかもしれないと思うと、とても恥ずかしくなりました。しかし、自分の中の常識や社会の波の中でこうした差別に気づくのはとても難しいことです。仏教学で私の差別心を学べました。もっともっと沢山のことを知りたいです。そしてそれを消化し、知識だけに留めず差別をなくす実践をしていきたいと思いました。

 差別の問題は、私が心の中でこう思い直しをした、このように知識として知ったということでは、相変わらず差別する側の論理であり、発想であり続けます。そのような閉ざされた、自分だけの心の安泰を追い求める間違った仏教の受け止め方に留まることなく、学生らのように具体的な一歩を歩み出すことが仏教者の責務でしょう。
 
〔本多静芳〕(『法話情報大事典』雄山閣より転載)




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