A: 「先祖は迷っているのでしょうか?」「祟りってあるのでしょうか?」
皆様はどう思われますか?「そんなことがあるものか!」と思われますか?実は、お寺への相談事でこの手が一番多いのです。相談に来られた方々も、きっと、人生が順調に運んでいるときには、誰に何を言われても気にならないことでしょう。ところが、いざ不幸ばかり続くと、日頃は、そういうことを信じていない人が一番危ないのです。そういう人間の弱さを利用するのが、霊感商法、不安産業と言われる、宗教とは名ばかりの脅迫宗教です。皆様も新聞の折込広告などで一度くらいは目にしたことがあるのではないでしょうか。
結論から申しますと、亡くなった方々が迷っているのではなく、生きている私たちが、実は迷いの存在なのです。人の言うことが気になり、直ぐに迷ってしまうのです。人生順調に行っているときは、自分は偉く強いつもりでおりますが、人間とは、非常にもろく弱い存在です。車で道に迷っているごとく、あっちにフラフラ、こっちにフラフラ、いつ事故を起すかわかりません。
私たちは、しっかりと地に足をつけて人生を歩んでいるつもりですが、そうでもないようです。特に、この目には見えない悪霊には、現代でも多くの人々が苦しめられているのです。それは、亡き方を悪霊にしてしまっている私の側に問題があります。
人間は、順調なときは、すべて自分の手柄にしますが、ひとたび、うまくいかなくなると、何かのせいにするのです。悪いことがあると、先祖のせいにしたり、自分がおろした水子のせいにしたり、墓が悪いとか、仏壇の向きが悪いとか…、きりがありません。それを「迷い」と言います。
しかし、どうしたら、この弱い存在の私が、人生を迷うことなく、生ききることができるのか。それは、「どんなことがあっても、あなたを捨てることがない」と、わが「いのち」を支えてくださる「まこと」なるものに、出遭うしかありません。その「まこと」とは何かを明らかにして下さる教えが浄土真宗です。
私たち、弱い人間が、強がるのでもなく、居直るのでもなく、弱い自分の存在をそのまま受け入れ、弱いなりにごまかさず生きていく、そういう人生へと導いて下さる「まこと」が阿弥陀如来さまなのです。
どうか皆様、迷いや不安が生じたときは、「南無阿弥陀仏」とお念仏申しましょう。そこにどんなご利益があるかと申しますと、南無阿弥陀仏の「南無」とは「安心なさい。私を頼りにしなさい」ということです。「南無阿弥陀仏」とは、阿弥陀如来さまが、私たちに直々に呼びかけている言葉です。私の口を通して私の耳に聞かせるために、お念仏を称える私の元に来て下さっているのです。阿弥陀如来さまを遠くに探す必要はありません。
私も、迷いや不安が生じたときは、お念仏を称えることにしています。そうすると、こんなことに悩むこともないんだ、心配することはないんだ、いつも阿弥陀さまが私の側にいて下さっている、自分の足でしっかりと立って歩んでいこうと、軌道修正できるのです。
残念ながら、宗教で体の病気は治りません。しかし、私が迷いの存在であることを教えてくれて、迷いの心を癒してくれるものです。いわば心の病気を治してくれるものです。
家族のご病気は心配ですが、ご自分がしっかりしなくてはいけないのに、悪霊に迷っていたら、ストレスで、それこそ、今度はご自身が病気になってしまいます。
阿弥陀如来さまは、「人間は、老病死の苦しみから誰一人逃れることができない弱い存在である」ことをよくご存知です。だからこそ見捨てることができないと、私に寄り添いその苦を乗り越える力を与えて下さるのです。
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回答者:伊東英幸
参考図書:『私の浄土真宗』 藤田徹文著 法蔵館 |
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