仏教ちょっと教えて 




031 因縁ですか


Q:因縁について教えてください。

 
 「因縁」って、あると思いますか?遠いので知らないまま終わっていたのですが、ここ2〜3年のうちに、主人の親戚関係で、火事で住宅全焼が2件あったそうです。何かの「因縁」ということを前面に出す宗教なら、今回のウチの火事も、その「因縁」のうちのひとつという言いかたになるのでしょうけど・・・。
  私は、「因縁」というのは人が作り出す妄想の一つではないかと思います。その延長線上には、それを利用して「宗教団体」をつくろうとする人が出現するという事が予想でき、チョット怖い気がします。でも、「私に気づかせてくれる何かの違い」と考えた方が良いように思います。「親戚関係で、火事」があったという事実を、やっぱり「因縁」があってうちも火事になったと考えるのか、「〇〇ちゃんの処が火事に罹ったから家も気を付けよう」と、ほとけが投げ掛けてくれている「智慧の光」として受け止めるのか、そんな事を思います。




A: 【因縁ということ】
 このご質問(何かの「因縁」で私にも悪いことが起きたのでは?という疑問)は、実際に身の回りに様々な「都合の悪い」出来事が起こった人でないと生まれにくいものです。その意味で、私たちは、ある意味で常に現実から学び、深められるということが言えると思います。決して観念の中でのみ学びが成り立つのではないと思います。

 とても雑駁な言い方になりますが、こうした二つの習得の仕方を私たちは一人の人間の中に合わせ持っているようです。しかし、日常的には一番目の方が身近で、常識的な認識だと思っています。そして、問題を人ごととしていられる時にはとても分析的で効率的に物事を判断できる方法だと私も思っています。

 しかし、いったん、問題が人ごとでなく、わが事になり、心配とか、不審とか、不安とというような問題が自分の上に生じたとき、つまり、ご質問の方のように、理屈ではなく、実感として不安をもたれた時には、客観的で整合性のみを求める説明だけだと解決にならないと言う問題を人間は抱えやすいようです。その時に、二番目のわが身を通して内省的に問題を捉え直してみるという方法があるということです。

 さて、「因縁」という言葉に関して、ご存じのように本来の意味とは全く違う意味がついてまわっています。つまり、自分にとっての「都合の悪い関わり」という意味でのみ使われています。あるがままを目覚めた仏の教え(仏教)の上からいうと、この世のあらゆるものも出来事も、すべてが関係性の上で成り立っていて、この関係性を離れたものはないというのが、大前提となります。すると、手を合わせて自分の「都合の善い」ことをお願いしても、それを叶えるようなものはどこにもいないのだということをどうかお願いだから気づいてくれというのが、仏教で説く縁起すなわち因果の道理なのです。まさに、「如」(あるがままの事実)が私にはたらきかけていることです。この「如」を、それこそ人ごとでなく、わが事として受け止めた人が、「自分は自分の都合でものを見ていたなあ」と実感したとき、如は私にとって私の思いこみやとらわれを気づかせてくれようと私の迷妄(迷い)に至り来たってくれたという表現をとったのが、「如来」という言葉です。

 一神教でいうような実体的な(つまり、他の存在と関わりなく、それ自身で成立するような)神のような概念とはまったく異なるものです。分かりやすく言えば、如来さまという実感は、頼みもしないのに私を目覚めさせる「はたらき」そのものを受け止めた言葉と言っていいでしょう。

 こういう前提から、縁起という形で世界の認識を仏教は説いたのです。その説明の言葉の一つが、因縁生起ということです。これは、縁起とか、因縁ということは、他の存在に影響を受けずに、しかも一方的に影響を与えるようなものは全く想定できないという視点からの説明なのです。

 つまり、拝めば私の都合のいいようにしてくれるようなものはなく、それは私が勝手に作り上げたものだということです。それと同様に、拝まないと私に祟るような迷った先祖の霊魂や罰を与える神などはなく、これも自分が自分のことを棚上げして作り出した迷妄ということです。
(余談になりますが、どこかに迷った霊魂がいると考える姿は、実はそのまま迷っている私がいるということを気づかせてくれると言うことができそうですね。あるいは、あの人は浮かばれていないのでは、と考えるのも、そのように関わらざるをえない私自身が浮かばれていない生き方になっていると言えるのではないかと思います。とても難しい問題ですが、これも客観的な問題ではなく、内省的に見るとこのような視点をいただくこともできると思います。)

 他との関係なく、それ自身だけで存在するものを仏教では「我」といいます。よく「無我」という言葉を聞きますね。これは、「本当はありえないことにこだわり続ける我というものにとらわれていると、とらわれている自分が苦しむよ」、ということを言っているのです。
 
 もうここまでお話したら、お気づき頂けたかと思います。私たちは縁起とか、因縁と言う言葉を使っているときでも、そこに自分の「都合」に引き寄せてものごとを考えてしまう迷いの私がいるということですね。つまり、因縁を考えるとき、「無我」ということを知らないで自分の迷いに基づいて考えていると誤解してしまうのです。

 しかし、仏教は、因縁だから、どうせ他との関係から免れないのだなと消極的な生き方を勧めるものではありません。むしろ、都合がいいときはウハウハしているのに、ちょっとでも都合が悪くなると落ち込んで消極的に留まってしまう自分だったなあと、(まさに主体的な内省をともなって)気づかされるのです。
(余談ですが、こんなことは自分では到底気づけないのが、迷った私です。だからこそ、頼みもしないのに、「気づけよ、目覚めよ、思い上がっている身の程知れよ」と呼びかけている如来さまなのです。その呼びかけを、南無阿弥陀仏といいます。この呼びかけなら、いつでも自分の口に称えて、聞いていくことができます。というより、そうできるようにという願いをこめて用意されているのです。浄土教というのは、この呼びかけを嬉しいときも、悲しいときも、恥ずかしいときも、思い上がっているときも、常に称えるのです。いつでも、どこでも一人じゃないよ。大きなはたらきと一緒だよという呼びかけです。)
 すると、「どうせ」という発想も実は、自分の都合で判断していたからだったと気づかされ、教えられ、二度とない今、ここのいのちを精一杯生きていこうとか、多くの関わりの中で生かされているのにそのことにちっとも気づかずにいた私だったなぁという生き方が、「知識」ではなく、「実感」として開けてくるのではないでしょうか。これは、押しつけることは出来ません。それを実感し、思い当たることができるのは、この「私」です。そして、思い当たることを可能にするのは、今、あなたが出会っているような仏(目覚めさせるかた)の教えを聞いていくことです。

 このように言われを聞いてみてみると、お尋ねのように、今度の一連の出来事(火事など)も、ただ都合の悪いことが起こらないように気をつけようと教えてくれているのだ、というようなある意味で(自分の都合のみを満たしていこうという)狭い受け止めだけで終わることがなくなるのではないでしょうか。もちろん、このような受け止めを否定するつもりはありません。こういう受け止め方を通して、自分自身に気づかされていくきっかけになるのですから排除すべき受け止め方だとは毛頭思えません。
 しかし、この出来事を通して因縁のいわれを聞いていくことが、自分の「意図したこと」のみではなく、「意図せざること」も、私にとってかけがえのない私の人生であったと受け止める生き方につながるのではないでしょうか。無論、「意図した通り」になることを求めてやまないのは私も同じです。しかし、それのみが価値であると思っていた狭い視点が、「意図せざること」もかけがえのない私のいのちの事実であったといとおしんでいく世界を共有できるのでないでしょうか。
(間違ってならないのは、人権を踏みにじる行為をこれで正当化しようとか、強者の弱者に対しての誹謗中傷や圧力をすることも甘んじて受け止めようなどというレベルでの話ではありません。そう受け止めることは、先ほど言ったように自説を相手に無理に押しつけるということになります。問題は、主体的な内省が私に開けてくるかどうかと言う問題です。昔の人は菩提心といい、非常に重要な問題だとしていました。今ここでは論じません。)
 するとそこにおいて、火事という「因縁」も(それまで私にとって「意図せざること」として排除すべきものとしてのみ決めつけていた出来事)が、私に本当に広い世界に気づかせようとしている「ほとけが投げ掛ける「智慧の光」として受け止める」ということになるのでしょうね

回答者:本多 静芳
  


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