A: 私は、横浜で浄土真宗本願寺派寺院の住職をさせていただいております。頂いた問いから自分自身の姿勢を省みながらお答えいたします。一緒にお考えいただければと思います。
人がお守りや祈祷などによって御利益を求めるということは、現前の不安から少しでも楽になれれば、という思いが根底にあると思います。それは人類誰しもが持つ、ある意味で普遍的な心情でありましょう。人類の歴史を振り返ってみても、そのような人々の不安を汲み取る何らかの装置が各社会ごとに用意されていたように思われます。仏教も含めて、ほとんどの宗教は、何らかの形でそのような不安を慰撫する機能をも果たしてきたことは間違いないと思われます。
それは、目的そのものを問う姿勢の喪失でありましょう。そこまでして何をしたいのかきちっと吟味することができない。不安の現実と向き合うことのできない私たちがいるのではないでしょうか。
釈尊の教えの出発点も、いかにしたら、老・病・死などの不安を克服でき、心安く過ごすことができるのか、という問いであったと伝えられています。
そのような根源的な問いに対して、お守りや祈祷が根本的な解決を与えているのか、と問われれば、確かにそうでない部分もあると思われます。浄土真宗では、お守り販売や祈祷など一切行いません。しかし、法要や儀式に於いて、皆さんの御利益を求める心の不安と真向かいになりながら、法要を営んでいるかといえば、反省することがたくさんあります。しかし、初めから根本的な解決への道筋に誰でもが入って行けるとは限りません。一見、迂遠と思われる方法でも、それを縁として、仏教本来の道へ進んでいくという例は枚挙にいとまがありません。
葬儀、法事なども、亡くなった方を偲ぶということを通して、亡き人をいかに受け止め、自分たちの生き様とどのように関わりを持たせていくのか、というところまで考えることができるのなら、それは、尊い仏縁ということになりましょう。形式的に死者儀礼と見なされがちな仏事ですが、その仏事を通して、本来の仏教の道へ進む法縁と受け止めることが肝要かと思います。私どももそのために日夜、研鑚に励んでおります。
このように、一見すると仏教本来のあり方とは遠く隔たっているかに見える営みも、それを仏教本来へ導きいれる方便、方途であると捉えることによって、尊き仏縁・法縁となるのではないでしょうか。
浄土真宗の本質は、阿弥陀さまから、現前の不安や迷いの現実を直視し、迷いをうち破る勇気を賜ることであります。具体的な行動によって、このお念仏のみ教えに少しでも近づいていきたいと思っています。
遅々として進まない歩みではありますが、皆さんと共々に歩んでまいりたいと思います。
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回答者:成田 智信
参考図書:同朋運動ブックレットB
「闇と向かい合って−御同朋の問いかけ−」 |
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