仏教ちょっと教えて 




036 お守り


Q: お守り札に願をかけることについて賛成、反対の意見を聞きます。両者の意見を聞いて、わたしはお守り札に願をかけて良いのかどうか判断つきません。どう考えればよいのでしょうか。

 



A:  どちらでもありません。
 あるいは、こういう形で二項的に分別していく問いかけの姿勢や、それに答えてしまうことに戸惑いを感じます。
 その理由について私はこう思うのです。
 お守りに願をかけたい人は、ある意味でいくらでもかけたらよろしいでしょう。
 なぜならば、お守りに自我の欲が叶うように願をかけてみて、思い通りにならぬという体験ができることもあるのです。その限りでは、「お守りに願をかける」ということは、どういうことであるかを自覚的に気付かせてくれる行為ですから、ある意味で自身の姿に気付かせてくれる有り難いことです。
 だから、ただ反対と言っていればいいということにはならないのです。
 しかし、ある意味で、と断ったのはその理由があります。
 お守りをはじめ、迷信といわれるものの根拠を知らないで、「昔からそうだったから」という態度でそれに関わることは気付かない内に、根拠のないものを容認し、それに追随する生活態度を形成しています。
 実際、迷信(自我の都合を満たすための様々な宗教的な行為である、日の善し悪し、さまざまな星座占い・血液型占いなどなど)を信じる人は、統計的に差別をする比率が高いことが報告されています。つまり、根拠のないものを信じる生き方は、差別を温存し、助長するということと直接していく可能性がとても大きいし、実際にそうなっているのです。
 そのため、こうした迷信とよばれる宗教的な行為を手放しに賛成するということもできません。
 しかし、迷信をくだらないことという態度で捨象したり、排除するのでは現実問題である「お守りに願をかける」ということに真向きになることなく、かえってこの問題を曖昧にすることになります。なぜならば、お守りをはじめとする迷信的な行為をダメであると排除するだけならば、この行為をきっかけにして私の中にある、そのような曖昧な生き方や迷いの姿が見えてこないからです。
 すると、自身の内側に巣くっているこうした曖昧な生き方を自覚して問題にすることで、このような迷いのお互いが形成している市民社会やその文化も迷いをもとにしているものであったと気付かされます。その時、はじめてこの社会を健全なものとしていくことにもなるのではないでしょうか。
 (この場合の健全なものというのは、当面の意味からいえば、お互いがお互いを認め合って暮らしていけるということであり、具体的にいえば私の中にある差別意識に気づかされることによって、差別の問題を曖昧にしたり、それから逃げようとする生き方から解放された社会ということです)
 そして、それは、いのちがすべて縁起しあい、つながり合って成立しているこの社会をお互いが生きやすいものとしていくことにも繋がっていくものと思われます。
 つまり、他ならぬこの私も、実は自我の都合のみを追いかける「我(自我)」というものが私の行動に大きな影響を与えていたと気付かされる生き方を貰うということです。
 それで、冒頭に私が述べたことがお分かり頂けると思います。つまり、私の生き方が自己中心であり、迷っていたという自覚を貰えるのも、「お守りに願」をかけようとする現実の私の姿によって、自覚的に体験的に気付かせてもらえるということもあるのです。
 この迷いを迷いとも思わぬもの(私)を気付かせる「はたらき」を実感する契機の一つが、広い意味でいえば、「お守りに願をかける」という無自覚な宗教行為でしょう。 
 「お守り」一つが、あなどれませんね。すると、私の行為の中に、我(自我)でしかなかた私が、本当の自己に帰らされる意味は、あらゆるところに発見できるということにもなります。
 しかし、この発見の方途、方法を自分の体験を通して知らないまま、知識だけで知ったかぶりをして、「迷信も、自分に気付く大切なものである」などと吹聴したならば、とんでもなく傲慢な生き方になることでしょうね。


(参考資料)
「暮らしの中で 『迷信と差別を考える』」編集・発行:差別墓石・法戒名を問い考える会。
電話・FAX0955−74−4639。解放出版社。


『同朋教団のよろこび』、編集(同朋運動教材編集委員会)発行(浄土真 宗本願寺派・奈良教区基幹運動推進委員会)電話0742−44−5878。                            

回答者:本多 静芳


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