A: 率直に申し上げて、現在の世間では念仏はインテリのする行為という印象とは反対のところにある姿なのだろうと思います。だから、そのような行為をすることが気恥ずかしく感じるのでしょう。
中流意識とは、すなわち自分を偉い人間と受けとめる意識であると言われます。富山のお寺の住職だった雪山隆弘さんは、みんな偉くなってしまってちょっと尋ねればいいことを聞けずに、その結果、自分の愚かさを知られるのがイヤだから名前や顔を知られないで済む様々な電話相談が流行っているのだと語っていました。今のインターネットの隆盛も同じ文脈でとらえられると思います。
偉くなること、完全無欠の人間だということのみを価値ありとする社会の中では、愚かそうに見える、謙虚そうに見える念仏を申すという姿に気恥ずかしさを感じる人が増えているのではないでしょうか。
浄土真宗の教えが、信心重視ゆえに念仏軽視に傾いているというのでないでしょう。むしろ、それを伝える人の学びの姿勢が、学びの「解釈」を重視する態度をとりがちであったため、おのずと人々に学的な傾向を作っていったということはあるかと思います。
かつて、基幹運動が展開していく中で、自身を省みることのない立場から、話合い法座は「物知り同行」を生み出すからけしからんと言っていた僧侶が各地に見られました。そうした発言に対して、物知り同行が生まれるのは、物知り僧侶が気づかずに自分の体質を広めているだけではないでしょうか、といった内容の言葉で問題の本質をついていたことを思い出しました。
念仏の声が聞けなくなったことは事実ではありますが、しかし現在でも念仏を称える姿は、とても謙虚で純朴な印象を与えることもまた確かだと思います。各自の欲望充足への行動が互いの不幸しか導かないことが共通理解となった現在、念仏の声が確かな拠り所としての本来のはたらきを発揮する可能性は大きいと思います。
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回答者:松本 智量
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